二人部屋の秘密外伝・姉の居ない日

  時は三月初旬――。
  その日がいつもと違う日であることに瑞穂(みずほ)が最初に気づいたのは、 いつものように学校から帰ってきて、玄関のチャイムを押したときだった。
  いつもなら、二、三回チャイムを押せば、 大学が春休みに入ってずっと家でごろごろしている三つ年上の姉、 怜美(さとみ)が「自分で開けなさいよぉ……」 などとぶーぶー言いながら鍵を開けてくれるのだが、 この日は何度押してもドアが開く気配すらない。
〈本でも買いに行ったのかなぁ……。それとも昼寝でもしてんのか?〉
  チャイムを何度押してもらちが明かないので、 仕方なく瑞穂はカバンの底から鍵を取り出し、 ドアの鍵をがちゃんと開けて中に入った。
  家の中は、ここ最近なかった静けさに包まれていた。
  カバンを玄関にほっぽり投げて辺りを見回すと、 誰もいないことがすぐに分かった。
〈怜美姉、どこいったんだろ……〉
  瑞穂は小首をかしげた。
  姉、怜美はかなり出無精な人で、 ここ最近は母の頼みでお使いに行ったり、 たまに近くの本屋や古本屋に行ったりする以外はずっと家の中で 本を読んだり、テレビゲームをしたり、 父親のパソコンをいじったりしている。 こんな人が家にいないのは珍しい。
  そんなことを考えながらリビングに入った瑞穂は、 そこのテーブルの上にクッキーの小袋を重石にした、 広告の裏を使った書き置きがあるのを見つけた。
〈なんだろう……?〉
  小袋を少し退けて見てみると、そこには姉の字が乱雑に並んでいた。
  『そーじしろー。
    せんたくものいれろー。
    ふろそーじしろー。
                    by  あね』
  ひらがなばかりだが、確かに怜美の字である。
  その横にはどう見たってつぶれたビスケットにしか見えないカニの絵が描いてあった。
  その絵を見て瑞穂ははっと思い出した。
  今日は、姉がいない日なのだ。

  怜美が大学の学科の女友達と旅行に行くということを瑞穂が初めて聞いたのは、今から一ヵ月ほど前のことだった。
「今度ねぇ、山陰の方へカニ食べに行くんだぁ」
  二月に入り、大学が春休みになったばかりの怜美が、「いいでしょう」と言わんばかりに瑞穂の部屋の方へやってきてそう言ったのだ。
  瑞穂はそれを聞いてまず、姉に友達がいた、ということに少し驚いた。なぜなら、瑞穂が知っている人のなかで、怜美ほど友達づきあいのなさそうな人はいないと思っていたからだ。
  大学には毎日行っているのだが、放課後はすぐに帰って来ているし、飲み会などはなんやかんやと理屈をつけて全部さぼっているようである。
  だから、こんな人に友達がいるということが瑞穂には意外に思えたのだ。
「へえ、怜美に友達、いたの」
  それを正直に言葉に出してしまい、瑞穂は慌てて口を押さえる。
  怜美は一瞬だけ瑞穂をにらみつけたが、すぐに元の顔に戻って言った。
「でも、いいでしょう。カニだよ、カニ」
  カニという言葉に、瑞穂の口の中に生唾がたまる。
  カニは瑞穂の大好物なのだ。
  それを知ってか知らずか、怜美は「カニ」という言葉を連呼した。
  それがますます瑞穂の頭の中のカニの幻影を大きくする。
「ま、そういうことで、その時は家事よろしくね」
「うんっ、その代わりカニよろしくねっ!」
  カニのことしか頭になかったその時の瑞穂は、日頃家事一切をやっている姉がいなくなる、ということはどうなることかということを全く考えていなかった。
  だから、姉との約束に軽く「うん」と言ってしまったのだ。

  カニの落書きつきの書き置きは、その時の怜美との約束を瑞穂に鮮明に思い出させた。
  おやつのクッキーを少しずつかじりながら、姉の残した書き置きをもう一度眺めて瑞穂は深いため息をついた。
  今更ながら自分の食い意地が憎らしい。
  今日は週に一度の部活休みの日で、瑞穂にとってはゲームの出来る楽しみな日であった。しかし、姉がいないとなると、約束通り掃除や洗濯をしておかなければならないだろう。
〈……ま、しゃーないか〉
  早くやって早く終わらせれば、母が帰ってくるまでに少しぐらいはゲームをやることができるだろう。
  瑞穂はクッキーをもう一つ口の中に放り投げると、制服を着替えに自分の部屋へと入っていった。

  しかし、なかなか思惑通りにはいかないのが人の世の常である。
  いざ、と気合いを入れて始めた掃除と洗濯物たたみだが、これがなかなか面倒臭い。
  まず、部屋に掃除機をかけることから始めたが、掃除機はただかけるだけではきれいにはならない。ちゃんと動かせるものは動かさないといけないのだ。これがかなり大変なことなのである。
  洗濯物をたたむという作業はもっと大変だ。
  まず、洗濯物が乾いているかどうかを一つ一つ確認して取り込む。それから、アイロンをかけるもの、タオル、父のもの、母のもの、姉のもの、自分のものといった具合に分類してたたみ、それぞれの引き出しに納めるという作業をしなければならない。
  掃除のほうは少しはごまかせるかもしれないが、たたむほうはそう簡単に手抜きは出来ない。
  それらが終われば風呂掃除も待っている。
  そんなこんなで、瑞穂が書き置きにある仕事を全てこなしたときには、既に外はすっかり暗くなっていた。
〈ずいぶん時間くっちゃったなぁ……〉
  瑞穂はリビングでんーっと背伸びをすると、それでもさっきよりは明るい調子で自分の部屋に向かった。
  もちろん、ゲームをするためである。
  ところが。
  ……ピン、ポーン。ピン、ポーン。
  特徴のある二回のチャイム音が母の帰りを告げる。
  瑞穂はがっくりと肩を落とした。
〈何でこーなるのよー!〉
  母が帰ってきてはゲームは出来ない。
  鍵を開けるために玄関に向かいながら、瑞穂は心の中で仕事を押し付けた姉にぶちぶちと文句を言った。

  その次の日は、高校入試のため瑞穂の通っている学校は休みになっていた。
  日頃から朝に弱い瑞穂は、今日だけは寝坊できると喜んでいたのだが、ところがどっこい、仕事に行く母親にいつもより早い時間に叩き起された。
「う~、なによお~」
  寝ぼけまなこで怒る瑞穂に、母親は半ば叩きつけるように言った。
「ほら、早く起きて。母さんもう行くからね」
「……だからってこんなに早く起こさなくても」
「はいはい。文句言わないの」
  あっという間に布団をはがされてしまった。
  はがした布団を干しながら母親はさらに言う。
「……じゃ、布団干してあるから、夕方には入れるのよ。あ、あと、掃除と洗濯もよろしくね」
「え-っ!」
  お姉ちゃんがいるじゃない。
  そう言おうとして、瑞穂ははっと口を押さえた。
  怜美は今旅行に行っているのだ。
「ううっ……」
  瑞穂はしぶしぶベットを出て、母親を玄関まで見送った。

  春らしく、少しぼけた青空が広がる暖かい日だった。
  瑞穂はそんな空を見上げて、はあっと一つため息をついた。
〈これが雨だったら、布団干しなんてしなくて済むし、洗濯物も乾かないのに……〉
  瑞穂の頭の中では、今日は部活もないので十時ぐらいまで朝寝をして、それから昨日出来なかった分までゲームの迷宮をじっくり攻略する予定だった。しかし、掃除はともかく洗濯は朝のうちにしておかなければ乾かない。
  したくはなかったが、それが姉との約束である。
  そのうえ、姉のいないときはきちんと瑞穂が家事をしなければ母親に怒られるのは自明の理である。悪くするとゲーム機を取り上げられるかもしれない。
  ただでさえ昨日持って帰った期末テストの成績が芳しくなく、たっぷりと説教されているのだ。これ以上母親の神経を逆なですることはしたくなかった。
「せめて洗濯物ぐらい母さんが干して行けばいいのに」
  瑞穂は周りにぶーぶーと文句を言い続けた。
  しかしもちろん、誰もそれを聞いてはいないし、誰かが手伝ってくれる気配もない。この家には今、瑞穂一人しかいないのだから。
  瑞穂はふくれっ面のまま洗濯物を干した。
  しかし、この『洗濯物干し』というのも疲れる仕事である。
  まず、絡まった洗濯物をほぐさなければならない。それが終わったらしわを伸ばして干すのだが、ベランダに置いたかごの中から洗濯物を取り出すのにいちいちかがまなければならず、どうしても腰が痛くなってしまう。
〈ほんとにまったくもう……〉
  なんでこんなときに怜美はいないんだろう。
  瑞穂のぶつぶつは当分やむ気配を見せなかった。

  とっても疲れる洗濯が終わって、次は掃除をする番である。
  しかし、今から掃除をする気はさらさらなかった。
  瑞穂はうーんと背伸びをすると、さっきとは打って変わった軽い足取りで自分の部屋にゲームのディスクとメモリーカードを取りに行った。
〈……ま、掃除は後でいいよね〉
  ささっと配線をつないで準備完了。
  さあ、やるぞ!
  ……と思った瞬間、電話が鳴った。
〈誰?  こんな時間に……〉
  首を傾げながら受話器を取った瑞穂の耳に、耳慣れた声が飛び込んできた。
「やっほう。みず、元気ぃ?」
  このノー天気な声は、姉以外にいない。
  最近持ち始めた携帯電話からかけてきているのだろう、後ろの雑音がひどい。
「家事やったぁ?」
「したっ!」
  本当は掃除機をまだかけてなかったのだが、それを言ってしまうとうるさくなるので黙っていた。
「これからゲームするとこなのっ!  用事は何なの!」
  電話のせいでゲームのお預けを食らっているので、瑞穂の語調は強くなっていた。
  そんな瑞穂に恐れをなしたのか、姉は一瞬黙った。
「用事ないんだったら切るよ」
「ちょ、ちょっと……」
  一瞬のためらいのあと姉はぼそっと言った。
「おみやげ、何がいい?」
「カニ!」
  そんなことで電話してきたのかとあきれる前に、何のためらいもなく瑞穂は自分の好物を答えていた。
「高い!」
  間髪を入れず怜美が答える。
「えーっ!」
  瑞穂はぶっと頬を膨らませた。
「それにどのカニがいいのか私には分かんないもん」
  怜美が言い訳がましく答える。
「だから、ほかのにして」
「えーっ!」
  しかし瑞穂のほうも、カニだけは譲れなかった。
  お互い軽いノリだったのかもしれないが、約束は約束である。
  瑞穂が家事でここまで苦労しているのだから、怜美のほうも高いとかと文句を言わずにちゃんとカニを買ってきて欲しい。
「じゃ、甘エビ!」
  それでも瑞穂は少し妥協して、もう一つの好物のほうをあげてみた。
「あのね……」
  電話の向こうでため息をつくのが感じられた。
  怜美にとっては、甘エビもカニも買うのが面倒だということではそんなに変わりがなかったようである。
「分かった、カニね」
  怜美の諦めた声が聞こえてきた。
「うんっ!」
  瑞穂が頷くと同時に電話は切れた。
  おそらく、通話料金を気にしてのことだろう。お金のことになると途端にけち臭くなる姉らしい切り方だ。
  そう思った瑞穂は、いつの間にか心が楽しくなっていることに気づいて我ながら驚いた。
〈あれっ、なぜだろう……?〉
  自分の気持ちに小首をかしげながらも、気を取り直して瑞穂はテレビゲームの電源をONにした。

  それからは日が沈むまで一日中静かで、瑞穂はゲームに集中することができた。
  しかし、いつもより何かが物足りない。
〈なんだろう……〉
  コントローラーをピコピコと押しながらその原因について考えていた瑞穂は、ふと突然、ある考えに行き当たった。
  静かすぎるのだ。
  いつもなら、瑞穂がゲームをしているといつの間にか怜美がよってきて、進め方が悪いだのアイテムを有効に使ってないのと散々批判するのである。その度に瑞穂はむっとして言い返したり、はたまた姉にパンチやけりをくらわせたりしているのだが、そのため、ゲーム中はどうしてもうるさくなってしまう。
  しかし今日は姉がいない。
  うるさい人がいないのでゲームには集中できるが、やっぱり少し淋しい。
  そこまで考えて瑞穂ははっとした。
〈何考えてんのよ、瑞穂。淋しいなんて……〉
  実際、姉がいなくてせいせいする、という気持ちも持っているのだ。
  瑞穂は再びゲームに集中し始めた。
  が、二つの相反する気持ちはいつまでも瑞穂の心にくすぶっていた。

  そして夕方。
  ゲーム機を片付け、一応掃除機もかけてほっとした瑞穂の横でまた電話が鳴った。
〈誰だろう……?〉
  受話器を取ると、疲れた頭にびしびしと響く姉の声が飛び込んできた。
「よっ、みず。元気?」
「何?  後ろがうるさいよ」
  電車の中からかけているらしく、時々がたんがたんという音が混じる。
「布団入れたぁ?」
「え……」
  布団、干してあったんだ……。
  今までころりと忘れていたことを姉にきかれ、瑞穂は少し戸惑った。
  しかし、ごまかすのは瑞穂の十八番である。
「うん、いれたよ」
  瑞穂はなるべく明るく聞こえるような声で言った。
「……ところで、カニ買った?」
  ごまかすには話題を変えるのが一番だ。
  果たして姉は乗ってきた。
「うん」
「ほんとにぃ~?」
「……」
  しばしの沈黙。
「まさか、カニカマボコなんて言うんじゃないでしょうねぇ……」
「ははは……」
  姉の笑いに力がない。
  瑞穂はいやな思いにかられたが、ま、いっかと思い直した。
  カニを買ってこなかったらその時点できつい文句を言えばいい。
  ごはんを用意しておいてという母への伝言をすると、怜美はさっさと電話を切った。

  しかし、ごはんまでには帰ると言っておきながら、瑞穂たちが夕ご飯を食べ終えても怜美は帰る気配を見せなかった。
〈怜美、何してんだろ……〉
  待っているとだんだん苛々してくる。
  そんな瑞穂を見て母が笑った。
「何をそんなに苛々しているの?」
「だって、怜美帰って来ないんだもん」
「あ、淋しいの」
  母の言葉に、昼間散々気持ちを揺らしていた瑞穂は慌てた。
「そ、そんなことないもんっ」
  否定する声に力が入る。
「帰ってこないとまたうちが茶碗洗わんといかんもん」
  照れ隠しもあったが、これは実際、昨日茶碗を洗った瑞穂の正直な感想だった。
  しかし母はそう思ってないらしい。口の端が少し笑っている。
  瑞穂はそんな母にはお構いなく、さっさと自分の部屋に引き上げていった。
「……でも、ほんとに早く帰ってこないかな」
  自分の部屋で一人になった瑞穂はそう呟いて少しにやっとした。
  姉が帰って来れば(多分)カニが食べられるし、茶碗も洗わなくてすむ。明日からまた、掃除も洗濯も怜美がやってくれるのだ。
  やっぱり姉がいると楽だなあ、と瑞穂は心からそう思った。
〈でも、怜美にそんなこと言うと絶対つけあがるから、だまっとこ……〉
  瑞穂はふふっと笑った。

  そして、九時を過ぎて。
  やっと、姉がにこにこ顔で帰ってきた。
  おみやげの、カニせんべいを持って……。

(後はどうなったのかは知らんが、とりあえず、終)
2002.12.9.  風城国子智(作者の現状と若干の注意)

WindingWind 風城国子智