いつか、また

  一

 ほんの四、五歩前に、見知った背中を認める。
 見つかっては、いけない。コウサは慌てて横の小路へその細い身体を隠した。
 小路の影からそっと顔を出し、先程まで歩いていた道を覗き込む。あの丸い背中は、やっぱり。
「おさとさん」
 小さな声が、コウサの口から漏れる。ニンゲンになってから出せるようになった声が、おさとさんのところにまで届かなかっただろうか? コウサは再び小路に身体を隠し、息をようやく整えてから、今度はもっと慎重に、小路から顔を出した。
 幸い、コウサがおさとさんの背中を観察していることを、当のおさとさんは全く気付いていないようだ。手を繋いで一緒に歩いている黒髪の子供がぴょんぴょん跳ねるのを制御するのに懸命だからだろう。ほっとする気持ちと、少ししょんぼりした感覚が、コウサの心に渦巻いた。
 車が遠慮なく走り回る道路が危ないことに気付いていないのか、黒髪の子供の飛び跳ね方は、コウサの目には異常に見える。黒髪の下から、どう見ても黒髪とは違う平たいものが覗いているのを認めて、コウサはふっと息を吐いた。あの子供は、コウサビトだ。かつての自分と、同じ存在の。
 ヒトに憧れ、ニンゲンになる為に、ヒトとウサギとの中間の存在として修行することを「お月様」から許されたウサギ、それが「コウサビト」。コウサ自身も、かつて、この小さな北国の大学で数学を教える「おさとさん」と暮らし、ニンゲンになる為の様々な修行を行った。人間としての作法、人間社会のこと、文字の練習、その他諸々。その全てが、今となっては懐かしい物事。
 外を歩くのが嬉しいのか、それとも元来がやんちゃなのか、黒い髪のコウサビトはおさとさんの手を振り切る勢いで飛び跳ねながら歩いている。そのコウサビトを、小さいがしっかりした手と腕で抑えて車道の端を歩かせようとするおさとさんは、コウサがまだコウサビトだった頃と全く変わらないように見えた。
 かつての自分は、どうだっただろうか。ふと、考える。かつての自分は、どんな狭い道でも我が物顔にびゅんびゅん走る車が怖くて、大好きな本が沢山有る近くの図書館まででさえ、おさとさん、あるいは隣の部屋に住んでいた白い髪のコネコビトのお姉さんに手を繋いでもらわなければ行くことができなかった。でも、ニンゲンになることができた今では、こうやって一人で歩いても(ヒヤリとすることはあるが)怖くない。おさとさんとコネコには感謝してもしきれない。
 だが。
〈やっぱり、おさとさんはコウサのこと、忘れている〉
 既に知っている事実が、コウサを悲しくさせる。
 コウサビトが「お月様」から認められて「ニンゲン」になったとき、かつてコウサビトの修行を助けてくれた人間の、コウサビトに関する記憶は無くなってしまう。コウサがヒトになった日、「お月様」はそう、コウサに話してくれた。コウサのことを忘れてしまうから、おさとさんはコウサと別れても淋しくないのだと。そしておそらく、おさとさんは、今一緒にいる黒い髪のやんちゃなコウサビトのことを、かつて一緒に暮らしていた薄茶色の髪をした恐がりのコウサと同じコウサビトだと認識している。そのことが、コウサにはたまらなく悲しかった。
 ニンゲンになることは、コウサの願いだった。だからこの「淋しさ」は、コウサが担わなければならない。だけど。
 自分を納得させるようにこくんと頷くと、コウサは泣き出す前にその場を離れた。


  二

 無人の改札口を出ると、目の前に真っ青な海があった。
「綺麗」
 思わず、声が出る。かつてコウサが住んでいた北国の海は、おさとさんに連れて行ってもらった時にはいつも、灰色でわさわさと荒れていた。この場所は、あの町より北にある筈なのに、海は写真やネットで見たのと同じように青く、波も少ない。同じ海なのに何故だろう? コウサは首を傾げた。
 と、その時。
「コウサー!」
 甲高い声が、コウサの思考を中断させる。
 声の方を見ると、白い髪をお下げに編んだ女性が、ピンク色のカーディガンをひらひらさせながらこちらに向かって走っていた。頭にあった筈の白い出っ張りは、もう見えない。だが、それ以外は昔と全然変わらないように見える。それが、コウサには嬉しかった。
 昔、まだコウサがコウサビトで、おさとさんと一緒に住んでいた頃、隣の部屋に一人で住んでいたのが、白い髪のコネコビト。コウサと同じように、ニンゲンになる為に、コネコと人間の中間の存在として人間社会を体験していた、コウサの「お姉さん」。
 そのコネコが、何処でコウサの消息を聞いたのか、絵葉書を一枚送ってくれたのが、今年の初夏。コウサはすぐに封書で返事を送り、そして久しぶりに逢うことになったのだった。
「久しぶりです、コウサ」
 この小さな海辺の町にある介護施設で働いているというコネコは、昔と同じ鼻筋の通った顔をくしゃっと歪める。
「元気でしたか?」
 コネコの問いに、コウサはこくんと頷いた。
「此処まで遠かったですか?」
 再びのコネコの問いに、今度は、首を横に振る。昔から、喋ることのできたコネコの方が口数は多かった。
 そして。
「街からは、遠いですけど、海が近いから毎日お魚が沢山食べられるのです」
 コウサと話しているうちに昔が蘇ったのだろうか、コネコが、かつてのコネコの口癖であった最後の「にゃ」を飲み込んだように、コウサには思えた。

 海岸沿いを、コネコと歩く。
「コウサお腹空いてるです。昼御飯食べるです」
 コウサに逢う為に勤め先を一旦抜け出してきたのだろうコネコの方が、おそらくお腹が空いている。コネコの口ぶりからそう推し量ったコウサは、黙ってコネコと並んで歩いた。
 そういえば。ふと思い出す。まだコネコビトとコウサビトだった頃も、二人はこうして一緒に並んで、色々な場所に行った。その思い出は、少し記憶が薄れているが、それでもコウサにとっては大切なもの。
 と。 「おや、ネコちゃんじゃないか?」
 海沿いに並ぶ商店の一つから、濁声が上がる。振り向くと、魚が大量に積まれた小さな店の前で、日に焼けた中年男性がコネコを見てニコニコ笑っていた。
「コネコの今の名前です」
 首から下げていた勤務先のネームプレートを、コネコがそっとコウサに見せる。『白川峰子』。ネームプレートにはそう書いてあった。
「みねこ、だからネコちゃんです」
 良い名前だ。コウサは思わずにこりとした。
 だが。
「一緒に居るのは恋人かい?」
 男性の次の声に、思わず全身が熱くなる。
「弟です」
 コウサの戸惑いには構わず、コネコはあっさりと否定した。
「このおじさんは魚屋さん兼漁師さんなのです」
 再び、コネコがコウサに囁く。
「物言いはずけずけしいですが、海鮮丼は美味しいのです」
「今日は、お魚食べていかないのかい?」
 説明するコネコの声に、再びの濁声が被ってくる。男性の言葉に、コウサは思わず下を向いた。元がウサギなので、コウサは魚や肉が苦手だ。おさとさんと暮らしていた時は、おさとさん自身が魚や肉を食べない人だったのでどうにかなっていたが、ヒトになってからは時折、特に他の人間と会食する際には少し困っている。ましてやコネコが贔屓にしているお店の人の言葉である。苦手だけど、食べないといけないだろうか。コウサはきゅっと唇を噛んだ。
 だが。
「残念ながら、コウサはお魚食べられないのです」
 コネコの言葉に、はっと顔を上げる。
 コネコは笑顔を崩さないまま、魚屋のおじさんに向かって頭を下げた。
「でも、帰りに玉蜀黍食べるのです」
「おや、それはありがたいねぇ」
 魚屋の隣で、これまた小さい店に穫れたてらしい野菜を所狭しと並べた店を出している中年女性の方を見て、コネコが笑う。そしてコネコは、コウサの手を引いて再び歩き出した。
「大丈夫です」
 しばらく歩いてから、コネコが囁く。
「出されたものを残すより、苦手ですってはっきり言った方が良いのです」
 それは、おさとさんも時々言っていた。「それができないから仕事が増えるのよねぇ」という愚痴と共に。
「それに、あのお魚屋さんと八百屋さんは夫婦なのです」
 だから、大丈夫。その理由よりも、コネコの声に、コウサはほっと息を吐いた。

 しばらく海沿いを歩いてから、山の方へと道を曲がる。
 少しだけ坂を上ると、おしゃれなログハウスが見えた。
「着きましたです」
 牧場併設のカフェだと、コネコがコウサに説明する。
「ここのケーキとアイスはとても美味しいのです。絞りたての牛乳を使っているのです」
 コネコの言う通り、カフェで出されたケーキもアイスクリームも、頬が落ちそうなほど美味しかった。
「ところで、コウサは今何をしているのですか?」
 一息ついてから、コネコがそう問う。コネコの問いに、コウサは肩に掛けていたスケッチブックを見せた。
「文字が書いてあるのですか? あ、花の絵が描いてあります」
 かつてコウサビトだった頃、喋れないコウサに、おさとさんは肩に掛ける紐付きのスケッチブックをくれた。そのスケッチブックに言いたいことを書くことで、コウサはおさとさんやコネコと意思疎通していたのだ。そして、おさとさんが仕事に行っている間、コウサは、おさとさんが持っていた様々な図鑑の絵をスケッチブックに描き写していた。ウサギであった時は食べ物としか認識していなかった草花を描くことが、初めは不思議でならなかったコウサだが、いつの間にか、形も生息地も様々な草花の不思議に心を惹かれていた。そして、ニンゲンになった今、コウサは大学院で植物について研究している。コネコがいるこの町に来ようと思ったのも、北国の植物を観察する為。
「絵、綺麗です」
 再び、語尾の「にゃ」を飲み込んだ調子で、コネコがコウサを褒める。その言葉が、コウサにはくすぐったかった。
 と。
「あ」
 空になったコップに注ぐ水の入った水差しを運んできた、ここで働くにはまだ小さいと思える子供の頭に見たことのある出っ張りを見つけ、思わず声が出る。そのコウサに、コネコは自分の口に人差し指を当ててから言った。
「ここにも、コネコビトが居るのです」
 そしてしょんぼりとした声を出す。
「先週見かけたのと、違うコネコビトです。先週は三毛のコネコビトが居たのです」
 ニンゲンになることができていたら良いのですけど。目を伏せたコネコに、コウサは掛ける言葉がなかった。
 そして。この牧場の人々も、町の人々も、コネコビトが先週と異なっていることに誰も気が付いていないらしい。コネコの言葉に、コウサはふっと息を吐いた。……おさとさんと、同じだ。
「そういえば」
 注ぎ足された水を飲んで一息ついたコネコが、不意に話題を変える。
「コウサは、ニンゲンになってからおさとさんに逢ったのですか?」
 コネコの問いに、コウサは首を横に振った。おさとさんと「意図的に」逢うことは、「お月様」から禁じられている。禁を破ればウサギに戻されてしまう。
「それは残念です」
 コウサの答えに、コネコは淋しそうに笑った。
「コネコは、昔お世話になった人に逢ったことがあるのです」
 ニンゲンとなったコネコが、介護士と看護士の資格を取る為に実習に行った病院に偶然、その人は居た。コネコはそう、コウサに話した。その人はすぐに居なくなってしまったから、コネコはその人に何もできなかったし、ましてやコネコだと名乗ることもできなかったけど、お礼は言えた筈。そう言って、コネコはまた笑顔を作った。
「だから、コウサもきっと、おさとさんに偶然会う日が来ると思うのです」
 三度、語尾の「にゃ」を飲み込んでコネコが言う。
「コネコとしての勘です」
 そうだったら、嬉しい。
 コネコの言葉に、コウサは黙って頷いた。


  三

 その廊下は昔と同じように薄暗く、そして昔と違って天井が低いような気がする。
 薄暗いのはともかく、天井が低くなったように感じるのは自分の背が高くなったからだ。そう、心の中で自分自身にツッコミを入れながら、コウサは殊更意識してゆっくりと、歩を進めた。
「こちらからは数学の教室です」
 案内してくれている、これから同僚として働く中年の教授が、窓が有るので少しだけ明るい方を向いてにこりと笑う。
 いよいよだ。コウサはきゅっと背を伸ばすと、逸る心を抑えつつ教授の後に続いた。
 今日からコウサは、北国にある小さな大学で生物を教えることになった。勉強も大変だったし、就職ももっと大変だったけど、好きな草花のことを沢山学べる環境は、とても気に入っている。そして。
「里村先生」
 案内する教授が発した言葉が、コウサの耳を打つ。
 コウサの目の前には、確かに、見知っている小柄で丸いシルエットが、あった。
「里村先生、こちらが、今度採用になった宇崎先生」
 おさとさんが立っている研究室も、かつてコウサがしばしば訪れていた時と全く変わっていない。所々鉛筆の印がある白いテーブルも、座り心地はまあまあの黒い応接用チェアも、本が適当に詰まったスチール製の本棚も、パソコンがちまっと乗っかった横に計算とメモ用の裏紙が山のように積まれている机も、昔とちっとも変わらない、そして、おさとさんも、少しだけ顔に皺が増えたような気がするが、それ以外はコウサの記憶のままだった。
 コウサがおさとさんと同じ大学に採用されたのは、本当に偶然。でも、コネコが言っていたように、コウサとおさとさんが再会するのは、運命なのかもしれない。それが、コウサには嬉しい。
 だから。
「宇崎孝三郎です」
 ずっと下に見えるおさとさんの優しげな笑顔にこくんと頷くと、コウサはそっと、握手をする為に自分の右手をおさとさんの方へ差し出した。

※参考文献
 相沢ナナコ、幻想生物事典、エンハンブレ企画、2012年。
 相沢ナナコ、コネコビト食堂秋、エンハンブレ企画、2012年。

注:この物語は、相沢ナナコ様@タヌキリス舎(旧エンハンブレ企画)が制作する「コネコビト」シリーズのスピンオフ作品です。「コネコビト」については、参考文献、またはtwitterでハッシュタグ「#コネコビト」を検索して下さい。

(終)
2013.10.28.  風城国子智(作者の現状と若干の注意)

WindingWind 風城国子智