十三階

 大学に入学してから付き合い始めた彼女と、夏の花火大会を見に行く約束をしたその日の夜、大学構内に一つだけ高く聳え立つ、この春に完成したばかりの十三階建ての建物の窓に映る白い女性を見た。
 実験が上手くいかなくて遅い時間になってしまった帰り道、ふと見上げた星の無い夜空の端に見えた、細く白い、影。教授達の研究室や小さな講義室と演習室がひしめくその高層の建物の、最上階にある窓の一つから細い足をぶらぶらさせて夜の景色を眺めている。高層の建物がある所為で風の向きが変わってしまったと、大学周辺に住む住民から文句が出ているその風に煽られたスカートの柔らかい白さと、窓の外で揺れる足の白さが、暗い空に映えて美しい。だから、でもないのだが。その女性に向かって、小さく手を振る。その手に気付いたのか、窓に座っていた女性も、手を振り返してくれたのが、心に温かかった。

「……それは、あり得ない」
 次の日の、昼休み。実験で同じ班になっている学友達に、昨夜の女性のことを話す。返ってきた反応は、否定。
「何かと見間違えたんじゃないのか?」
 友人の問いに、強く首を横に振る。あれは確かに、まだ若い、華奢な女性の姿だった。
「第一さぁ、あの建物の窓は十センチしか開かないんだぜ」
 転落防止、あるいは自殺騒ぎが起こっては大学当局が困るからか、十三階建ての建物にある窓は全て、はめ殺しになっているかほんの僅かしか開かない仕掛けになっているらしい。廊下やエレベーターホールにある窓には更に、開けると警報が鳴るという仕掛けも施されているらしい。十センチという狭い隙間から両足を出せるほどの、細身の女性がどこに居る。友人にそう言われて初めて、心の中に疑念が生まれた。しかしながら。友人達に見えないよう、心の中で首を横に振る。あれは、見間違いではない。
「それよりも」
 不意に、学友の一人の顔が鼻先に近付く。
「鍵は、用意できたんだろうな」
 友人の言葉に、黙って頷く。大学のランドマークとなりつつある十三階建ての建物の最上階からは、大学があるにも拘わらず貧しく小さいこの町の光景も美しく見えると、教授達は競って建物の最上階にある会議室や大講義室を公開講座や学会の会場として使っている。おそらく、この町の数少ない娯楽である夏の打ち上げ花火も、あの建物の最上階から観覧すれば豪華に映るだろう。そう考えた学友の一人が、大学構内の清掃のアルバイトをしている自分に、花火大会の日の夜に最上階の部屋に侵入する為の合い鍵の作成を頼んできた。会議室や講義室では見つかった時にアルバイトを首になってしまう。いや、最悪の場合大学も除籍になってしまうかもしれない。だから、最上階にたった一つある、予備の椅子やテーブルを収める倉庫の合い鍵を、こっそりと作った。その鍵は、今、鞄の内ポケットの中に大切に収まっている。彼女や友人と見る花火は、高校時代に人混みの中で蒸し暑さを感じながら見た花火とは異なり、おそらく、最高に楽しく快適な思い出になるだろう。わくわくした思いに、我知らず口の端が上がる。感じたことの無い、その高揚感をも、好ましいと感じている。その理由は、おそらく、横にいる彼女の存在。

 その夜。大学構内の清掃を終えて帰る途中で、再び、十三階建ての建物の最上階の窓に座っている白い女性を見る。
 あの窓は、倉庫の窓では? 疑問と不安が、脳裏を過ぎる。恐怖も、だ。あの場所からもし落ちてしまったら、どうなるか。考えただけでも身の毛がよだつ。おそらく学生なのだろうが、窓から足を出しているところを誰かに、教授達に見つかれば、叱責で済むはずがない。停学、あるいは除籍か。心配と怖れが綯い交ぜになった気持ちを抱え、最上階へ急ぐ。作った合い鍵で倉庫を開けると、予測通り、胸の高さにある出窓のようになった窓枠に腰掛けた白い影が、瞳に映った。
「誰?」
 小さい声しか、出て来ない。しかしその声が聞こえたのか、白い影が振り向き、自分の方を見て笑ったように感じた。だが、信じられない思いで目を一瞬だけ閉じた、次の瞬間。白い影は、跡形もなく消え去っていた。見えるのは、きちんと閉まった窓と、微かに明るい闇に映る予備の椅子とテーブルのみ。飛び降りたのか? 震える足で、窓へ向かう。しかし窓は施錠されていた。その窓を開け、恐る恐る下を見る。風が前髪を掻き上げる。そして勿論、白い女性の姿は、夜空にも、地面にも、無かった。

 そして、花火大会の夜。
 友人達と、友人達の彼女、そして空色の浴衣をぎこちなく着た彼女と共に十三階の建物に入る。まだ花火大会の時間ではない、夏の夕方の淡いオレンジ色に彩られた十三階は、集中講義があるとはいえ大学が休みに入ってしまっているからなのか、何処か静かで、そしてよそよそしさを感じた。
「鍵は?」
 友人の問いに、鞄から大切な合い鍵を取り出す。この鍵で倉庫の扉が開くことは、既に試し済み。その時に見、目の前で消えた女性のことを思い出し、我知らず背中が震える。それでも何とか、合い鍵を倉庫の扉に差し込み、ゆっくりと鍵を回す。だが。……開かない。驚愕が、頭の中を真っ白にした。
「どうした?」
 友人の言葉に、首を横に振るしかできない。おそらく、扉の方の鍵装置が、知らないうちに変わってしまったのだろう。
「しゃーないな」
 花火が見れないのなら、何処かで飲むか。不満顔の友人達の声に、俯く。空色の浴衣を着た彼女が、鍵を持っていない方の手を優しく掴んでくれたことだけが、救いだった。

 その、次の日。
「大変だ!」
 大学構内。失敗に落ち込む視界に、チラシのようなモノを持った学友達が現れる。
「昨日俺達みたいに十三階に侵入して、ぼや騒ぎを起こした奴が居たんだって!」
 勝手に合い鍵を作り、会議室に侵入して宴会をしたあげく、大学構内では禁じられている煙草を吸って危うく建物を火事にしかけた学生達は、一日も経たずに除籍処分となったと、学友達が手にしていた、おそらく掲示板から千切り取ってきたと思われる紙に書いてある。その紙を読み、学友達を見て、そしてやっと、安堵が全身に広がった。一歩間違えば、自分も、学友達も、彼女も、紙に氏名が書かれている学生達と同じ運命を辿っていたかもしれないのだ。
「良かったわ」
 同じ集中講義を受ける約束をしていた、隣に居た彼女が、そっと、呟く。その彼女の方に目を向けた、次の瞬間。全身に走ったのは、驚愕。どうして、今まで気付かなかったのだろう? いや、自分はこれまで、彼女のことをしっかりと見ては、いなかった。ただ、彼女ができたことの嬉しさに舞い上がっていただけ。
 もう一度、隣に佇む彼女の顔を、しっかりと見詰める。隣に居た彼女は、確かに、最上階の窓から足を出し、星の無い夜空を見て微笑んでいた白い影の女性、だった。

(終)
2014.12.22.  風城国子智(作者の現状と若干の注意)

WindingWind 風城国子智