彼女、の

「……あの、映画、ありがとう」
 海風の中、微かに聞こえて来た声に、振り返る。
 背後にいる、俯いた女性の、ワンピースの胸元を飾る柔らかいリボンが風に揺れるのが、篤志の目には好ましく映った。
 彼女の名は、さとり。漢字で書くと『悟』。新入生を対象とした数学演習のクラス分けで張り出された名前を初めて見た時に『男子』だと勘違いしてしまったことは、今は昔。実際のさとりは、本当に『女の子らしい』女の子、だった。
 ワンピース姿も、可愛いな。あくまで篤志の後ろを歩くさとりをちらちらと目だけ動かして見やりながら、思わず頬が緩む。普段のさとりが大学に着て来る、シンプルだが胸元にちょっとだけレース又はフリルが付いているブラウスに目立たない色の膝丈スカートも、篤志の目には好ましく映る、が。その、慎ましげで凛とした格好で、演習時に皆の前で証明問題を説明する姿に、篤志は一目で見惚れたのだ。
 その、篤志の心を知らないのは、おそらく当のさとりだけ。それでも良いと、篤志自身は思っていたのだが。
「それちょっと淋しくないか?」
 そう言って来たのは、確か、大学でいつもつるんでいる仲間の一人、だった筈だ。
 篤志とさとりが所属する、数学科の学生の中でも、『出来の良い』連中が集まっているグループ。演習の予習や試験対策のみならず、普通の飲み会やちょっとした遠出なども男女入り交じって楽しくやっている、都会出でドライな感覚を持つ篤志にとっても不思議と居心地の良い、空間。そしてそこは、日本海側にある小さな町からこの都会へ出て来たというさとりにとっても、居心地の良い空間であるらしい。普段はあまり喋らないし、飲み会には参加しないが、勉強会の時には必ず居る。男共とは喋らないが、さっぱりとした性格の女子達とは喋り、爽やかな笑い声すら聞こえて来る。
 それはともかく。
「皆でわいわい、ってのも良いけど、さとりってあまり自己主張しないからなぁ」
「やっぱりここはオーソドックスに、二人っきりでデートよ」
 仲間達にせっつかれるようにして、篤志はいつの間にかさとりにデートを申し込んでしまって、いた。
 そして。篤志の口頭での誘いに、さとりはこくんと、頷いた。その結果が、今日のこの状況である。
「ま、最初は、メジャーな映画を見て海辺を歩いて、くらいが良いのか?」
 そう言いながら、海の近くにある映画館の、恋愛映画のチケットを渡してくれたのも。
「ランチ、は、さとり喋るの苦手だから無理、っと」
「でも、お茶ぐらいは誘えよ」
「話題は数学……以外はあるのかな? そこらへんは篤志が考えてね」
「ていうか、篤志の好きな話題も分かんない」
「言えてる」
 などと、聞きようによってはかなり無礼なことを言いながら、映画館周辺の喫茶店リストをネットから探し出してプリントアウトしてくれたのも、大学では何故か一緒に行動してしまう気安い仲間達。彼らには、お礼を兼ねて報告くらいしないといけないな。あいつらのことだから、コーヒー一杯奢るくらいじゃ済みそうにないような気も、しなくもないが。
 そんなことを考えながら歩いていた篤志の足が、不意に止まる。考え事をしている間に、背後のさとりの気配が無くなってしまっていたのだ。
 まさか。いやな考えと共に、大慌てで振り向く。会話も何もなく歩いていたから厭きられたか呆れられたかしてしまい、何も言わずに帰ってしまったのだろうか。いや、さとりは目立たない女の子だが、他人には痛いほど気を使う子だ。数学の演習時も、簡単な計算問題は全て他の学生に譲ってしまい、難しい証明問題ばかり解く羽目になってしまっている状況を、篤志はしばしば目にしている。そんなさとりが、篤志に黙って帰る筈がない。と、すると。まさか。……海に落ちたのでは?
 だが。篤志の心配は、一つも当たらなかった。海沿いの道の、海と陸を隔てる柵に腕を置いて、さとりは海を見ていたのだ。
「穏やかな、海ね」
 慌てた篤志が近寄ると、さとりは篤志の方に顔を向けてから、再び海の方へと顔を向けた。
「そうだね」
 数学以外の、話題だ。篤志は大慌てに慌てて話題を合わせようとした。だが、……何を言って良いのか、一言も口から出て来ない。
「日本海の海は、いつも波が高かったから、こういうの珍しくって」
 さとりの隣に立つと、潮の香りに、微かに鋭さのある薫りが混じる。普段から、爽やかな薫りのする練り香水をつけていると、これも仲間の女学生が教えてくれたこと。
 こんな所で数学の話など、できない。だからといってそれ以外の話題が、全く思い浮かばない。だから篤志は、そっとさとりの顔を見やり、そしてさとりの視線の先を追った。
〈あれ、は〉
 さとりの視線の先にあったのは、対岸にある観覧車。確か、ここから電車で二駅ほど行った先に、デートスポットで有名な遊園地兼水族館があった。
 観覧車に乗ろう、とは、恥ずかしくて言い出しにくい。二人はまだ「恋人」という間柄ではないのだから、誘ったら失礼にあたるかもしれない。だが、……水族館なら、魚や海獣の話題が、できる。
 だから。
「行ってみる? 遠く見えるけど、結構近いんだ」
 遠くの観覧車を指して、さとりに尋ねる。
 さとりははっとした表情で篤志を見、そしてこくんと頷いた。

 休日だったが、水族館は混んではいなかった。
「あ、見て。コツメカワウソがいるわ」
 ここへ来て、さとりは急に人柄が変わったようだ。口調も、そして喋る頻度も格段に増えている。
 水族館が、好きなのかな? 飼育員が投げる餌を上手く受け取り、餌を取る前とは打って変わった凶暴な顔つきでそれを食すコツメカワウソを熱心に見ているさとりを見詰めながら、そんなことを考える。だったら、ここに連れて来て良かった。いや、最初から映画館ではなく水族館に連れてくれば良かったのだ。篤志は心からそう思った。だが。……この違和感は、何だろう? やはり、水族館でのさとりのはしゃぎっぷりは、普段とは全く違う。
「アザラシも、可愛いわね」
 一方、さとりの方は、そんな篤志の戸惑いなどには全く構わず、小さな子供達の横でアザラシに見入っている。
「アザラシに触ったこと、ある? 肉の感触が、ね、すっごいのよ、とても」
 日本海側にある小さな水族館のことを、きらきらとした瞳と少ない語句で話すさとり。そのさとりは、やはり、普段のさとりとは、違う。服装と香りは、普段のさとり。だが、普段のさとりの話し方はもっと穏やかで、なおかつ知性が感じられた。女の子達と話すという、リラックスした状態でもそうなのだ。
 だから。
「君は、誰?」
 思わず、こんな問いが口をついて出る。
 アザラシの浮き沈みを熱心に見ていた『さとり』の、完全に「しまった」という感じの表情が、半ば鏡のようになった水槽の硝子に、映った。
「……ばれた、か」
 あれだけはしゃいじゃ、しょうがないわね。くだけた感じの口調で、篤志の方を振り向いた『さとり』の表情はやはり、普段のさとりとは全く違っていた。
「君は?」
 もう一度、同じ問いを繰り返す。『さとり』はふっと唇を歪めると、あっさりとした声で答えた。
「晃(あきら)。さとりの、双子の姉」
 その返事に、まじまじと目の前の女性を見詰める。水族館の、暗い調光の下で見ているからかもしれないが、彼女の見た目は、さとりと全く同じだった。いや、今日、待ち合わせ場所である映画館の前で出会ってから水族館のこの場所まで、彼女が『さとり』ではないと、篤志は気付いてもいなかった。
「……さとり、は?」
 ある感情に突き動かされ、声が震える。さとりは、自分とデートするのが嫌だから、姉を代理にしたのだろうか?
「誤解しないで」
 しかしながら。『あきら』という名の、さとりに良く似た目の前の彼女は、篤志の目をじっと見てから頭を振った。
「私が勝手にやったこと。さとりは、知らない」
 昨夜急に熱を出したさとりに「代わりに断りの電話を掛けてあげる」と言って、さとりの携帯を取り上げた時に、思いついたこと。さとりに化けて、最近妹が「気になっている」と言い続けている男のことを、調べたい。そして、会ってみて心根が曲がっていると思われる奴だったら、何としても妹から遠ざけねば。そう思い、さとりと同じ服を着、同じ香水を付けて篤志に会いに来た。あきらははっきりと、篤志にそう、告げた。
「でも、あなたは案外良い人っぽいから、さとりには良いんじゃないかな」
 そういって笑うあきらの顔は、確かに、さとりとは全く違っていた。
 そして。
「何故? 何故、こんなことを?」
 もう一つの篤志の問いにも、あきらは真っ直ぐな回答を出した。
「さとりが、私のたった一人の妹だから」
 父を知らず、育ててくれた母を高校時代に亡くしたあきらとさとりにとって、互いは一番大切で掛け替えの無い、宝物。その宝物を悲しませるような人物とは、男女問わず付き合って欲しくない。ただそれだけのことだと、あきらは事も無げに言った。
「最近、さとりが少し明るくなったんだ。『友達が出来た』って」
 姉妹にとって、日本海側の小さな町は一般に暗く冷たい場所だった。音楽を志すあきらはそれでも、数少ない理解者に囲まれて幸せだったが、数学を志していたさとりを理解してくれた人は本当に、少なかった。進学のことしか頭に無かった高校の同級生からは『ライバルである』としか認識されていなかったと思われる。そんな町を捨てて、この都会へ来、大学で数学好きな仲間と出会えた。さとりにとって、それはとても良いことであり、あきらにとっても嬉しいことだ。と、暗い水族館のアザラシの水槽の前で、あきらは熱心にそう、話した。
 そう、か。不意に、笑い出したくなる。さとりは自分のことを嫌っているわけではなかった。それどころか、たくさんの仲間に囲まれて幸せなのだ。
 だから。
「さとりのこと、嫌わないでやって欲しいんだ」
 微かに俯いたあきらの言葉に、篤志はにっと笑って言った。
「当たり前だろ」
 姉であるあきらの考えも、自分の思いも、おそらく仲間達の想いも、同じなのだから。

(終)
2012.12.17.  風城国子智(作者の現状と若干の注意)

WindingWind 風城国子智