狼と獅子

 微睡んでいた意識に侵入した、冷たく胸に突き刺さるような殺気に、心を落ち着かせる為に小さく息を吐いてから瞼を上げる。大木の根元に横になっていた自分の鼻先に突き付けられた剣先に宿る、夕日を反射した赤い閃光に、ラウドは沸き上がる気持ちを誰にも気付かれないように、再び小さく息を吐いた。ラウドに対してこんなことをする輩は、一人しか思い当たらない。
 自身の予測を確かめるように、突き付けられた剣の峰に沿って視線を上に向ける。予想通り、剣の先には、金色の髪を夕日に曝した堂々たる体躯の男が立っていた。この男は。舌打ちを、何とか堪える。この男は何故、こんなにしつこく自分に付き纏うのだろうか? 舌打ちの代わりに、ラウドは横たわったまま、目の前に立ちはだかる男をじっと睨み、静かな声で言った。
「何の御用ですか、獅子王レーヴェ」
 この言葉は、失礼過ぎたかもしれない。歪むレーヴェの顔に、少しだけ反省する。本当は、ラウドの方が侵入者なのだから。ラウドは、かつてこの大陸を支配していた『古き国』の騎士の一人。目の前に居るレーヴェは、その『古き国』を滅ぼした『新しき国』の若き王。そしてこの場所は、『新しき国』の都の近く。
 獅子王レーヴェが治める『新しき国』が、ラウドが所属する『古き国』を滅ぼしてから、半年余りが経っている。『古き国』の女王は行方不明となり、女王が所持していた三つの宝物はレーヴェが大衆の面前で粉々に打ち砕いた。『新しき国』の下で、大陸は戦乱の疲れから解放されつつある。しかし『古き国』は完全に滅びたわけではない。女王と、彼女に従う大多数の騎士達は地下に隠れた。『古き国』の騎士達にしか封じることができない、この大陸の人々を混乱させ悲しませている『悪しきモノ』から人々を守る為に。今のラウドも、『狼』騎士団の団長としての責務として、『悪しきモノ』が人々を困らせていないかを確かめる為に、『新しき国』の領内深くに入り込んでいたところだった。
 レーヴェに出会うかもしれない。その覚悟はしていたつもりだ。しかしこんなにすぐ、こいつに行き会うとは。自分の不運を、ラウドは呪った。しかし『古き国』と女王のことは隠さなければならない。「『古き国』の女王が『新しき国』を滅ぼす」。この予言が為に、『新しき国』は『古き国』を滅ぼし、女王の宝物を粉々にしたのだから。それはそれとして。『悪しきモノ』を封じるには、『古き国』の騎士達の血と力が必要だ。先程まで『悪しきモノ』と戦っていたラウドは、実はかなり疲れていた。だから今は、構わずに眠らせて欲しい。それが、ラウドの本音。
「生きて、いたか」
 そのラウドの思考には構わず、レーヴェの剣の切っ先はラウドの鼻先から首筋へと向かう。レーヴェの剣が発したカチャリという音に、ラウドは溜息をついた。留め具が緩んでいる。ちゃんとした武器職人に見せた方が良い。
 そして。
「私のものになれ」
 首筋に剣を突きつけて言う言葉じゃないだろう。これまで何度も聞いた、レーヴェの言葉に、ラウドの苛立ちは最高点にまで達した。こいつは何故、俺なんかを自分の配下に加えたがる? 一見で騎士だと判断されたことの無い華奢な見かけで、なおかつ他人より秀でた能力など何一つ持っていない人間なのに。だが、感情を隠すのは、慣れている。返答の代わりに、ラウドは大儀そうに首を横に振った。
 ラウドには、レーヴェに仕えたくない理由があった。ラウドの母は、かつて、レーヴェの父である先代の獅子王に武人として仕えていた。そして先代獅子王の愛を受けて、ラウドを宿した。しかしそのことが、正妻であるレーヴェの母、すなわち先代獅子王の王妃の怒りを買ったらしい。正妻はラウドと、妹であるリディアを身ごもっていた母を王宮から追い出した。それから、『古き国』の辺境伯の一人である義父が拾ってくれるまで、ラウド達は苦労に苦労を重ねた。母の苦労を知っているから、『新しき国』と、その支配者であるレーヴェは、どうしても許すことができない。だからラウドは、地面に横たわったまま、レーヴェをじっと睨みつけた。
 と。
「ラウド様!」
 甲高い声に、はっと身じろぐ。このタイミングで周囲の探索を頼んでいた従者が戻ってくるとは。予想外の展開にラウドは臍を噛んだ。ラウドの新しい、まだ若い従者が、短槍を構えてレーヴェに突進してくるのがはっきりと見える。このままでは、従者がレーヴェに殺される。
「来るな!」
 レーヴェの剣が従者の方に向いたのを幸い、叫びつつ跳ね起き従者とレーヴェの間に割って入る。しかし即座にラウドの方に戻ってきたレーヴェの剣に阻まれている間に、レーヴェは従者の短槍を軽く避けるなり空いていた左手で従者の喉を強く掴んで持ち上げた。
「ぐっ……」
 レーヴェの剣の下で尻餅をついた格好になったラウドの前で、首を絞められた従者が急速に静かになる。
「私のものになれ」
 再び剣を突きつけられたラウドの答えは、一つしか無かった。
「分かった。従者を放せ」
 レーヴェを睨み付けて、それだけ言う。ラウドの言葉にレーヴェは満足そうに頷くと、左手の従者を放るように地面に横たえた。
 青白い顔の従者に、まだ息が有ることを確かめる。ほっと息を吐くラウドに、レーヴェの傲岸な言葉が降ってきた。
「約束は、違えるな」
「分かっている」
 そんなことは、しない。ラウドは自分の黒いマントを従者の身体に着せかけると、覚悟を決めて立ち上がった。

「……さて」
 『新しき国』の都にある、騎士用の宿泊所。あてがわれた小さな一室で、ラウドは深く溜息をついた。
「これから、どうするか」
 確認するように、部屋を見回す。夕刻の茜色に染まった部屋にある物は、硬そうなベッドと、ラウドが腰掛けている服を入れる為の長櫃のみ。長櫃の中身が空であることは、先程確かめた。階下に台所があったから、食料はもらえるだろう。武器と服は、支給されるのだろうか? レーヴェが急かすので、ラウドが持っていた武器や荷物は全て従者と共にあの木の根元に置いて来ざるを得なかった。支給されないのであれば、下着の裾に縫い込んである金貨を使って買いに行かなければならない。窓から見える、傾斜した街並みにとその先にある川面に、ラウドは思わず目を細めた。話に聞いた通り、『新しき国』の都は、一面だけが緩く傾斜した丘の上に立てられている。丘の頂上に、分厚い盾壁と底に木杭を打った空濠に囲まれた王宮があり、緩く傾斜した部分に街が作られている。街はしっかりとした歩廊付きの城壁で囲まれているし、丘全体が川と人工の堀とで囲まれている。王宮の裏側には峻険な崖と深い堀があるから、一度籠城されると攻めるのは大変そうだ。ラウドはそんなことを考えていた。この都を攻めるのなら、裏切りを誘発する必要がある。そこまで考えて、ラウドは自分のばかばかしさに思わず笑った。『古き国』と『新しき国』との戦いは、終わったのだ。今更、この都を攻める術を考えても詮無きこと。今は、それよりも。
 徐に、褪せた赤色の上着を脱ぐ。服の裾を解くと、黒銀色をした楕円形の平たく硬い物が、ラウドの手に幾つか落ちた。
 『古き国』の騎士達が必ず携えるよう定められている『記録石』。この石を持つ騎士の行動は逐一、『古き国』の王宮の地下にある図書館内の書物に自動で記される。しかし『古き国』の騎士達がこの『記録石』を持っている理由は、行動を記録し不正を防ぐ為ではない。『記録石』は、『古き国』の騎士達が持つ、「過去や未来に『飛ぶ』能力」を抑える為に必要なのだ。思わぬ時に自分と繋がりがある人物が居る過去や未来の、今自分が居るのと同じ場所に飛ばされるのは、自分の身が危ない時にはその危険から逃れることができるので便利だが、歴史や未来を改変してしまう可能性がある。いや、この『能力』の所為で実際に歴史は改変されてしまった。だからこそ滅びるはずだった『古き国』は地下に隠れ、ラウドはレーヴェに殺されずに今この場所でのんびりできるのだが。歴史を変えた張本人である、もじゃもじゃの赤い髪をした少年の真っ直ぐな瞳を思い出し、ラウドは仕方が無いという笑みを浮かべた。ともかく、この『記録石』は、『古き国』の騎士達にとって無くてはならぬ物だ。特に、少年の頃から『記録石』が身に付かず、しばしば未来に『飛んで』しまっているラウドにとっては。現に、結婚式を挙げたばかりの妻のアリアがマントにも上着にも鞄にも『記録石』を丁寧に数多く縫い込んでくれたにも拘わらず、マントは部下の従者の身体を包むのに使ってしまったし、鞄も置いてきてしまっている。残っているのは、上着に縫い込まれた分だけ。大切に使わねば。裾に縫い込まれた『記録石』を全て外しながら、ラウドは溜息ともつかぬ息を吐いた。
 アリアに、会いたい。唐突に、思う。逢って再びこの腕で、細身のラウドよりも更に華奢なあの身体を抱き締めることができる日は、来るのだろうか? 常に頭巾できっちり包まれている、あの白金色の艶やかな髪を撫でることは? らしくない不安に駆られ、ラウドは首を横に振った。
 と。
「制服を、持ってきた」
 ノックの音と共に、ラウドをこの部屋に案内してくれたレーヴェに仕える騎士団長が現れる。中年で何処か得体の知れないこの騎士団長を、ラウドは信頼できるとみていた。だから、でもないのだが。
「ありがとうございます」
 きちんと一礼して、『新しき国』の騎士団の制服である白い上着と青いマントを受け取る。顔を上げると、騎士団長の後ろにまだ若い騎士が二人居るのが見えた。次の瞬間。若い騎士の一人が、いきなりラウドに殴りかかる。拳が頬に当たる寸前で、ラウドはついとその攻撃を避けた。
「何をする!」
 騎士団長が、ラウドと若い騎士の間に割って入る。止められた若い騎士は、ラウドに激怒した目を向けた。
「こいつは、仲間を無残に殺した!」
 騎士の言葉に、息が詰まる。確かに、戦場でラウドは多くの『新しき国』の騎士を殺した。策略を用いて、騎士達を罠に落としたことも何度かある。……もう負けが分かっているのに、騎士達を激怒させ、騎士達が渡っていた吊り橋を切り落として多くの命を川に落としたことも。戦争だから、仕方が無い。そう、言えるのかもしれない。だが、理性と感情は、別の物だ。だから。騎士団長の制止を聞かず再びラウドに向かってきた拳を、ラウドは今度はまともに頬に受けた。

 次の日。
 殴られて腫れた顔に、『記録石』を縫い込んだ白い上着と青いマントを身に着けて、ラウドは宿舎を出た。
 『古き国』におけるラウドの任務は、探索。『新しき国』でラウドが行うべきことは分からないが、周りのことを知っておかなければ何もできない。だからラウドは何も考えずに、昨夜『新しき国』の騎士団長から貰った銅貨でパンとロープと水筒と葡萄酒と背負い鞄を買い、さくっと準備を整えて都を出た。日帰りの予定だから、火打ち石は購入したが松明は要らないだろう。
 川を渡れば、右に麦畑が広がり、左には遠くに森が見える。『悪しきモノ』は森にいることが多い。だからラウドの足は、自然に森が見える方へと向かっていた。
 両側から木の枝が時々影を作る起伏のある小道を、てくてくと歩く。麗らかな春の日は、歩くのに丁度良い。そう思いながら歩いているラウドの耳に、不意に、風に乗って小さな泣き声が入ってきた。
 くるりと、慎重に辺りを見回す。道の傍を流れる小川の向こうに、えぐられたばかりの一筋の地肌を見せる小さな崖と、その下にうずくまる小さな影を認めるなり、ラウドはバシャバシャと小川を渡り、泣いている小さな子供を抱き上げた。
「大丈夫か?」
 子供に声を掛けつつ、ラウドが習得している三つの魔法の内の一つ、回復の魔法を掛ける。ラウドが騎士団長を務めている『古き国』の騎士団の一つ『狼』団では、レベル1の回復魔法は習得必須である。レベル1でも、有るのと無いのでは大いに違う。少しの油断が命取りになることもあるのだ。しかしレベル1では間に合わないことも、多々ある。
「家は、どこだ?」
 とりあえず、子供の怪我はたいしたことは無い。温める為に自分のマントで子供の小さな身体を包みながら、ほっと息を吐く。だが、まだ小さい子供だから、家に帰した方が落ち着くだろう。ラウドの問いに、しかし子供は嫌々と首を横に振った。家が、無いのだろうか? そっと、辺りを見回す。綺麗に編まれた小さな籠と、そこから転がり落ちて潰れている卵が見え、ラウドははたと納得した。
「大丈夫。怒られないから。一緒に帰って謝ってあげるから」
 それでも何度も首を横に振る子供を抱えたまま、ラウドは小川の上流へと歩を進めた。下流にあるのは都だから、おそらく子供は母親か誰かに頼まれて都へと卵を売りに行く途中だったのだろう。ラウドの予想はうまく当たった。しばらく歩くと、小さな集落が見えてきた。
 その集落の、鶏が庭を歩いている家に、声を掛ける。家から出てきた女性は、ラウドが抱えていた泥に汚れた子供を見るなりわっと叫んで子供にむしゃぶりついた。
「ごめんなさい、卵、落と」
「大丈夫? 痛いところ無い? 無事で良かった」
 しょんぼりした子供の声に母親らしい優しい声が被る。その親子の声に、ラウドは自分の母親のことを思い出し、そっと左のこめかみに手を当てた。小さい頃、誰かに酷く殴られて気を失った時、目覚めたらすぐ側に母親の泣き顔があった。そして母は、ラウドを抱き締めてずっと泣いていた。常に厳しく冷静だった母の泣き顔を見たのは、この時だけ。

 集落を離れて、再び森の中を歩く。
 しばらく歩くと、道端で止まったままの馬車に行き会った。
「どうしたのですか?」
 御者席で思案している恰幅の良い商人風の男に、声を掛ける。男はラウドを見て驚いた顔をした。
「これは騎士様。こんなところで珍しい」
 どうやら『新しき国』の騎士達は、『古き国』の騎士達のように困った人を助ける為に歩き回ることはないらしい。人手が足りないのだろうか。ラウドはふとそう思った。人手が足りないのなら、レーヴェがラウドのような敵方の騎士にまで「私のものになれ」と言った理由が理解できる。
「いえ、実は、この近くに子鬼の集団がいまして。この道は町へ行く近道なのに困っているんですよ」
 それならば、お安いご用だ。商人の言葉にこくんと頷くと、ラウドは支給されたばかりの剣の具合を確かめた。大丈夫だ。刃はきちんと磨いであるし、留め具の緩みもない。普通の足取りで、ラウドは道の先へと向かった。居た。小柄なラウドの背の1/3も無い、緑色の肌をした子鬼が五匹、道の真ん中で遊んでいる。
「ちょっと退いてくれないかな?」
 子鬼達に、大声を掛ける。森に逃げていくものと思われた子鬼は、しかし五体一丸となってラウドに襲いかかった。
「なっ!」
 しかしラウドが戸惑ったのはほんの一瞬。両腕を振り回すと、子鬼達はあっという間に地面に伸びた。しかし普段は臆病な子鬼が襲いかかってくるとは、どういうわけなのだろうか? 考えられる理由としては、『悪しきモノ』が身体に取り憑いて、人を襲うように唆されたから、なのだが、伸びている子鬼を見る限り、『悪しきモノ』の気配は何処にも無い。では、何故? 疑問に突き動かされるまま、ラウドは地面に伸びている子鬼の一体を爪先でつついた。
「ウウッ」
「何か困っていることがあるのか?」
 起き上がった子鬼に昼食用のパンを見せて、そう尋ねる。ひったくるようにパンを奪ってがつがつと食べ始めた子鬼は、一息ついてから答えた。
「オレタチノモリニオークガスミツイタ。オレタチカエルバショナイ」
「なるほどね」
 それならば、人が通り、食料を得ることもできるが殺される可能性もある街道に出てきてしまうのも、理解できる。しかしこの場所に子鬼がいては人々が困る。子鬼達を殺すなり無理矢理森に追い払うなりすれば良いのだが、何となく、ラウドは子鬼達が可哀想に思えてきた。だから。
「とりあえず、お前達の森に案内してくれ」
 子鬼達にそう、提案する。ラウドの言葉に、気絶から覚めた子鬼達は細い目を丸くし、そしてラウドが手渡したパンを頬張って満足してからわきゃわきゃと奇声を発して傍の木々の中へと入っていった。
 その子鬼達を、見失わないように追う。どのくらい、森の奥へと入っていっただろうか。不意に、空気が重くなる。次の瞬間、ラウドはギリギリのところで降ってきた戦斧の鈍い刃を躱した。しかしラウドが体勢を立て直す前に、降りた戦斧が再び上がり、また降りてくる。暗い森の、木々の間から入ってくる光に、大きな影が映っていた。これが、子鬼達の言っていたオークだろう。次々と降りかかる戦斧の猛攻を身の軽さと習得している魔法の一つである防御の盾で何とか躱しながら、策を練る。力では、小柄なラウドはこのオークに敵うわけがない。ならば。ラウドは不意にしゃがみ込むと、戦斧を振り回すオークの太い足を両手で掴んで引き倒した。倒れたオークの背に、影よりも黒い靄を認める。『悪しきモノ』だ。そう認めるなり、ラウドは身体を掠めた戦斧で負っていた腕の傷口から流れる血を、起き上がる前のオークの背に振りかけた。たちまちにして、靄が消える。起き上がったオークの瞳は、戦斧を振り回していた時よりも幾分穏やかになっていた。
「ココハ、ドコダ?」
 戸惑うオークの低い声に、ほっと息を吐く。どうやらこのオークは、『悪しきモノ』に操られていただけのようだ。しかもラウドの血だけで靄が離れたところをみると、『悪しきモノ』はまだ、このオークの内部に深く入り込んでいたわけではないようだ。『悪しきモノ』に深く囚われた者を助けるには、首と胴を切り離して殺すしかない。かつての、歴史が変わる前のラウドは、気を失っている間にレーヴェに喉を切られ、遺体は首と胴を切り離された上で朽ちるまで『古き国』の入り口に晒された。だから、なのかもしれないが、首と胴を切り離すことにラウドは幾分かの抵抗感を感じてしまう。それはともかく。
「ここは子鬼の領域」
 傍らで威嚇するように飛び跳ねる子鬼達を示して言う。オークもすぐに理解し、戦斧を肩に担いで自分の領域へと帰って行った。全ての生物は、人も、『悪しきモノ』も含めて、自分の領域で生きていくべきだし、その方が幸せなのだ。森の影に消えたオークの背に、ラウドは心から安堵した。

 再び都が目に入った時には、既に、辺りは茜色に染まっていた。
「少し遅くなったな」
 痛む傷に、顔を顰める。昨夜受け取ったばかりの上着は既に泥と血で汚れ、あちこちに破れや穴ができていた。直せるだろうか? アリアが居れば、綺麗に直してくれるのだが。少々気が引けるが、騎士団長に言って新しいのと交換して貰おう。ラウドがそこまで考えた、丁度その時。
「居たぞ!」
 ラウドの周りを、数人の騎士が取り囲む。目の前に居るのは昨夜ラウドを殴った若い騎士だ。
「今まで何処に行っていた!」
 いきなり、若い騎士がラウドの胸倉を掴む。
「捕虜のくせに勝手に出歩くんじゃない!」
 朝ラウドが宿舎を出て行く時も、都の城門から外に出た時も、咎める者は誰も居なかったが。そう、ラウドが反論する前に、若い騎士がラウドを殴る。その拳を、ラウドは寸前で避けた。殴られるのは一度でたくさん。
「このっ!」
 しかしラウドが拳を避けたが為に、今度は周りの若い騎士達全員を怒らせてしまったようだ。一瞬にして、ラウドの周りに剣の柵が立つ。どうするか。一瞬で、態度を決める。ラウドは振り向くふりをして、左側にいた騎士の、剣を持った手首を強く握り、輪が崩れたところで騎士達の間から飛び出した。
「なっ!」
 戸惑う声と、避けきれなかった鋭い痛みを、同時に感じる。蹌踉けたラウドの身体はそのまま地面に激突した。しかし、……次の攻撃は、無い。その代わり。
「ラウド?」
 聞き知った少年の声が、ラウドを戸惑わせると同時にほっとさせた。
「何故ここに?」
 ラウドの目の前に居たのは、もじゃもじゃの赤い髪の少年。今日はラウドと同じ白い上着を身に着けている。
「ルージャ」
 未来に、飛ばされたのだ。ラウドはほっと息を吐いた。そう言えば、今朝身に着けていたマントは子供の身体を包むのに使ってそのまま置いてきてしまっているし、上着の裾はオークとの戦闘で破れてしまっている。『記録石』が全て手元から無くなってしまっているのだから、『飛んで』しまうのもある意味仕方が無い。
「また飛ばされたのですね」
 ルージャの横には、ラウドの妹であるリディアに似た背の高い青年、レイが呆れたような顔を見せている。
「ラウド、何その格好? しかも顔に痣作ってさ」
 立ち上がったラウドを指差し、ルージャがケラケラと笑うのが、何故か心地良かった。
 ルージャとレイは、ラウドから一〇〇年ほど後の時代の、『古き国』の若き騎士。二人ともしばしばラウドの時代へと飛ぶことがあり、その結果、滅びるはずだった『古き国』は特にルージャの無茶により滅びず、地下に潜ることになった。二人には感謝してもしきれない。今でもラウドは心からそう思っていた。
 彼らがここに居る理由は、すぐに分かった。『古き国』の騎士の務めとして、ラウドと同じように、『悪しきモノ』が現れていないかどうか見回っているのだろう。
「この辺りでは、あまり見かけませんが、用心に越したことはないでしょう」
 落ち着いた面持ちで、レイが言う。
「おそらく、『古き国』の騎士の中でも力の強い者が、かつてこの辺りに葬られたのでしょうね」
 続くレイの言葉に、ラウドも沈痛な面持ちになった。
 『悪しきモノ』と戦って命を落とした『古き国』の騎士達は、亡くなった場所に葬られるのが定め。命を失った後も、その血と力で以て『悪しきモノ』を封じ続ける。それが、定め。ルージャもレイも、そしてラウドも、その定めを背負って任務を果たしている。
 夕方である為か、少し寂しくなる。ラウドは無理に笑顔を作った。

「当面、王宮内から出てはならぬ。私の傍に居ろ」
 未来から帰還した後。都の入り口で待っていた騎士団長に連れて行かれた王宮内にある王の執務室で、レーヴェは居丈高にそう、言い放った。
 レーヴェの言葉に、渋々頷く。ラウド自身、勝手に探索に出て行ったことは間違っていたと思っていた。行き先を誰にも告げていないし、帰って来るとも言っていないのだ。「逃げた」と思われても仕方が無いだろう。
 だが。
「私を拘束して、何をさせるつもりですか、王?」
 素っ気なく丁寧に、疑問を口にする。『新しき国』の法律や慣習に詳しくないラウドにできることは、周辺の探索と部下の育成のみ。『探索』は禁止された。戦争時の蟠りが未だに残っている状態では『育成』も無理だ。戦っている時ならともかく、今の『新しき国』では、ラウドは役に立たない存在だ。何もできない。自分の力不足が、……悔しい。何故レーヴェは、ラウドを欲しているのだろうか? 何度目かの疑問が湧き上がり、ラウドは思わず下を向いた。できると、すれば。
「私にできることは、『悪しきモノ』を封じることだけですよ」
 それだけ、口にする。ラウドの言葉に、レーヴェはラウドを一瞥し、そして横を向いた。
「別に、何もしなくて良い」
 そしてラウドの気持ちを逆撫でする言葉を口にする。
「『悪しきモノ』など、幻想に過ぎぬ」
 それは、違う。叫びそうになるのを、堪える。『悪しきモノ』は現実に、人々の営みを蝕んでいる。それは『古き国』でも『新しき国』でも同じことではないのか? ラウドの疑問に、しかしレーヴェは答えず、ラウドに部屋を出ていくよう手振りで示した。

 次の日から、ラウドは王宮内にあてがわれた近衛騎士用の部屋で寝起きし、レーヴェの傍らに付いて回った。レーヴェが信任している伯や貴族達に会う時は謁見の間で儀礼用の槍を構え、執務室で大臣達と政について話し合う時は後ろに立ったまま控え、食事の時は給仕をする。『新しき国』の王宮は中庭を四角く囲む形で建物が建っている『表』と、王が起居する、『表』より土地が一段高い『奥』から成っているのだが、その『表』の四角の四辺をぐるぐる回るだけ。『古き国』で見習い騎士をしていた時よりは楽だが、退屈だな。それが、ラウドの正直な感想だった。
 その感想が顔に出ていたらしい。
「修練の相手をせよ」
 執務の合間に、レーヴェによって『表』の四角形の頂点の一つにある建物内のがらんとした部屋に連れて行かれる。天井が高く、床が板張りのその部屋には、壁一面に飾られた模擬武器の他には何も無かった。
「好きな武器を使って良いぞ」
 木製の大剣を手にしたレーヴェを見てから、床に投げ出すように置かれていた木剣を手にする。軽い模擬武器はラウドの手には少し頼りなげに感じたが、それでも、ラウドは気を取り直してレーヴェの前に立った。レーヴェとラウドに付いてきた、レーヴェに仕える騎士団長や他の近衛騎士達は、壁の傍に立っている。見られている。そのことも、ラウドには落ち着かなかった。
 『古き国』の武術訓練は、実践重視。晴れの日も雨の日も外に出て、実際の武器(刃は丸めてあるが)で訓練をする。この場所のように修練用に作られた建物内で、木製の模擬武器を持って戦った記憶は、ラウドには無い。だが、レーヴェと対峙したラウドが感じたのは、既視感としか言いようがない感覚だった。戸惑うラウドは、それでも、容赦なく打ち込んできたレーヴェの速く重厚な攻撃を紙一重で躱した。修練だろうと実践だろうと、やることは同じだ。滑る床に戸惑いを調整しつつ、ラウドはもう一度レーヴェの攻撃をギリギリで躱すと、くるりと身を翻してレーヴェの背後に飛び上がった。
 レーヴェの後頭部が、無防備に映る。ここで武器を振り下ろせば、例え木剣でもレーヴェを殺せる。しかしラウドは、その好機に何故か躊躇した。次の瞬間、後頭部に、痛みが走る。床の冷たさが、ラウドの身体を優しく出迎えた。

 目覚めて最初に見えたのは、レーヴェに仕える騎士団長。
「済まんな」
 頭を下げる騎士団長に、ラウドは床に寝転がったまま首を横に振った。王の危機に対処するのが、王に仕える騎士の役目。だから、レーヴェを殺すことができたラウドを殴るのは、当たり前の行為。そっと、周りを見回す。修練場にはラウドと騎士団長の他誰も居なかった。レーヴェはおそらく、自分の仕事に戻ったのだろう。
「今日の任務は免除するそうだ」
 ラウドの様子に安堵したらしく、騎士団長はそれだけ言うと、王宮内にいるという医術の心得がある者の名と居場所を告げてから修練場を出て行った。
 空虚な空間に一人残されて、ほっと息を吐く。身体の痛みに構わず起き上がり、怪我の具合を探ると、左肩が少しだけ露出しているのに気付いた。おそらくレーヴェの攻撃を躱した時に服が裂けたのであろう。
 苦い感情が、口に広がる。レーヴェは、左肩にある痣を、見ただろうか? 身体に掛けられていた青いマントで左肩を隠しながら、ラウドは自分の迂闊さに舌打ちした。ラウドの左肩にある、獅子の横顔に似た痣は、ラウドが獅子王の血を引く者である、すなわちレーヴェの異母弟であるという証拠。この痣のことをレーヴェが知ったら、レーヴェは自分をどうするだろうか? 悪い予感に囚われ、ラウドは思わず首を横に振った。痣を見られたにせよ、気付かれなかったにせよ、今のところはまだ無事だ。考える余裕はある。
 と。甲高い声に、入り口の方を向く。入ってきたのは、小さな二つの影。二人とも、どうやらまだ子供のようだ。一人はもう一人よりも大柄で、態度も横柄そうに見える。そして何処かレーヴェに似ていた。
 隅のラウドに気付かないまま、子供達は大人のまねごとのように模擬武器を振り回す。しかし大柄な子供の方が武器の習熟度が高いらしい。たちまちにして大柄な子供が小柄な子供の武器を強い力ではたき落とし、泣き出した小柄な子供を更に叩こうと武器を構えるのが、見えた。放っては、おけない。ラウドはすっと立ち上がると一飛びで子供達の間に割って入り、尻餅をついて泣く小柄な子供を抱き上げて腫れている腕に回復の魔法を掛けた。大柄な子供が武器を振り上げたのが、気配で分かる。攻撃してくる子供を腰の捻り一つで避けると、ラウドは無防備になった子供の背中を力加減無しで蹴り上げ、吹っ飛んで気絶した大柄な子供には構わず小柄な子供を医術の心得がある者の所へ連れて行く為に修練場を離れた。

 その日の、夕方。
 春にしては寒過ぎる夕方で、騎士団詰所の暖炉にくっついて震えていたラウドの傍に、突然レーヴェが現れた。
「何の、用ですか?」
 思わず素で尋ねる。まさか、肩の痣を見られてしまったのでは? ラウドの危惧は、しかしすぐに外れた。
「レンを、叱り飛ばしたそうだな」
 暖炉の傍に立ったレーヴェの言葉に、思わずレーヴェを見上げる。何のことだ? しばらく考えてやっと、昼間修練場で生意気な子供をあしらったことを思い出した。
「あれは、私の子だ」
 思わぬ言葉を、レーヴェは口にする。ラウドにもアリアとの間に、まだ生まれてはいないが子供がいる。ラウドより年上のレーヴェに子供がいてもおかしくは無い。しかしレーヴェにはまだ正妻がいなかったはずだ。と、言うことは。レーヴェの唯一の欠点である『好色』の噂を思い出し、ラウドはレーヴェに悟られぬように低く笑った。だが。
「部下を手荒に扱わぬよう、あいつには厳しく言ってやらねばならん」
 不意に変わったレーヴェの口調に、首を傾げる。
「私も昔、修練の最中に年下の子供に大怪我をさせたことがある。いや、その後でその子を見なくなってしまったから、……もしかすると殺してしまったのかもしれない」
 レーヴェの告白に、ラウドは何も言えず、黙って暖炉の火を見詰めた。

 細い声が、耳に響く。
 何だろう? 気になって声がした方へ向かうと、中庭に生えている背の低い木の一つがむやみに揺れているのが、見えた。……その木の陰で、小柄な人影が手足をばたつかせているのも。
 一足で、木の傍へ向かい、人影が身に着けている豪奢な着物に引っかかっていた木の枝を折り取る。暴れるのに体力を使い果たしたのか、小柄な人影――見たところ老人、いや老女のようだ――はラウドにぐったりとその身を預けた。全く、こんな曲者が隠れやすそうな木を王宮の、しかも王が執務を行う『表』の中庭に植えて手入れもしていないとは。不用心過ぎる。老女が引っかかっていた低木を一瞥してラウドは深い溜息をつき、そして自分の思考に呆れた。何故自分は、敵であるレーヴェの王宮の木のことまで心配しているのだろうか? それはともかく。
「大丈夫ですか?」
 怪我が無いか、そっと老女の様子を確かめる。人心地がついたのか、老女はラウドの腕にすがりつつも自分の足でしゃんと立ち、ラウドをじっと見詰めた。
「ありがとう」
 そのすっきりとした物言いは、誰かに似ている。誰にだろう? ラウドが首を傾げるより早く、老女は不意にラウドの腕を掴み直すと、思いもかけない人の名を呟いた。
「……ルチア? ルチアなの?」
「え」
 今は亡き母の名を唐突に呼ばれたことよりも、老女のラウドの腕を掴む強さに胸を突かれる。そして。
「どうして黙って出て行ったの! 心配したのよ!」
 老女から言われた言葉に、ラウドは意味を取り損ねて立ち尽くした。
「レーヴェがラウドに大怪我を負わせたこと、悪かったと思っているわ。でも誰にも言わずに出て行くなんて。お腹の中にもう一人子供もいたのに」
 呆然とするラウドに、老女がまくし立てる。
「それで、ラウドと、お腹の子は、元気なの?」
「あ、……はい」
 それだけ答えるのが、ラウドにはやっとだった。
「そう、良かった」
「……奥方様!」
 女性の声に、我に帰る。振り向くと、王宮でよく見るお仕着せを着た若い女性がこちらへ駆け寄ってくるのが見えた。助かった。老女を女性に引き渡しながら、ほっと息を吐く。「奥方様」と呼ばれた、ということは、この老女は、レーヴェの母、すなわち先代の王妃なのだろう。……母とラウドを追い出したと、ラウドが信じていた。
 先代の王妃が女性に連れられて館の中に去ってからも、ラウドは庭に立ち尽くしたままだった。先代の王妃の言葉で、分かったことは、一つだけ。母は、この都から追い出されたわけではない。おそらく、レーヴェによってラウドが大怪我を負ったので、ラウドを守る為に、母は身重の身を押し切って自らこの場所を出て行ったのだ。
「そんなこと、しなくても良かったのに」
 小さく、呟く。母と一緒に歩いた、荒涼とした寒さを思い出し、ラウドの身体は無意識に震え続けた。
 この都を出て行く時、母は何を思ったのだろうか? ふと、そんなことを思ってみる。
 そして。レーヴェが「殺した」と思っている幼い少年は、おそらくラウド自身。暖炉の傍で見た、レーヴェの暗い顔を、ラウドはまざまざと思い出した。自分は、間違った感情を抱いたまま、何をしていたのだろうか? ぽろぽろと、涙が零れる。レーヴェに対する蟠りは、ラウドの中で完全に消えていた。

「久しぶりに馬に乗りたい。付いて来い」
 ラウドの怒りが氷解するのと時期を合わせるかのように。
 次の日、レーヴェはラウドにそう言って無理矢理ラウドを馬に乗せた。乗馬は苦手なのだが。苦笑しつつも、ラウドはレーヴェに従い、都を出た。
 森が広がっている部分とは反対側の、畑が広がっている土地を延々と、馬に乗ったレーヴェの後に従う。連れて来られたのは、都から少し離れた、草ぼうぼうの小高い丘の上だった。
「ここからだと、都が一望できる」
 レーヴェの言う通り、丘に登ると、川から緩やかに持ち上がっている丘の上に作られた都と王宮が、要塞のように粛然としているのが分かる。都だけではない。都に出入りする街道も、まだ実を付けていない麦が揺れる畑も、丘からは臨むことができた。この都を落とすにはどうすれば良いだろう? この丘に陣取るのはどうだろうか? いつもの癖で、ラウドはそんなことを考えた。
「この国を、どう思う?」
 不意に発せられたレーヴェの言葉に、正直面喰らう。『古き国』の騎士であった(今でも『古き国』の騎士であるとラウド自身は思っている)自分に尋ねる質問では無い。しかし、相手は王だ。答えねばなるまい。
「豊かな、国ですね」
 半年ほど前まで戦いに明け暮れていた国だとは思えない。それが、ラウドの正直な感想。『新しき国』の都の周りが戦場になったことは無いので、この心安まる風景は昨日今日でできたものでは無いのだが。
「そうだろう」
 ラウドの言葉にレーヴェは満足したようだ。にこりと、笑う。そして。
「この国を、私は守らねばならない。その手伝いを、して欲しい」
 次のレーヴェの言葉に、ラウドは思わず俯いた。何度も言うが、ラウドは『古き国』の騎士だ。それ以外の何者でも無い。レーヴェが支配するこの国の為にラウドができることは、皆無。有るとすれば。
 目の端に映ったものに、はっとして剣に手を掛ける。
「下がって下さい!」
 レーヴェにそう言い捨てると、ラウドは馬から飛び降り、地面の割れ目から湧き上がる黒い靄に向かって剣を構えた。
「『古き国』の騎士の血と力で以て、『悪しきモノ』を封じる。女王よ守り給え」
 自分の左腕を剣で傷付け、いつもの呪文を小さい声で唱えてから、ラウドは一瞬でレーヴェの背よりも大きくなった靄の中へと飛び込んだ。暗闇の中で、核を捜す。あった。地面の割れ目に隠れていた、他の場所よりも更に暗い部分に、ラウドは自分の血が付いた剣を突き立てた。たちまちにして、暗闇が晴れる。今回も大過なく『悪しきモノ』を封じることができた。ラウドはほっと息を吐くと、レーヴェは大丈夫だったかと振り向いた。
 と。
「……レーヴェ?」
 馬上のレーヴェの様子が、何となくおかしい。どうしたのだろうか? ラウドが首を傾げる間も無く、レーヴェは徐に馬から降りるとラウドの傍に立ち、呆然とするラウドの首に手を掛けた。
「なっ……!」
 息ができない。体格差で、身体が浮き上がるのが分かる。首に掛かったレーヴェの手を外そうと藻掻いたが、無駄に終わった。レーヴェの後ろに黒い影を見て、ラウドは霞む意識を振り絞ってまだ血が止まっていない左腕を大きく振った。次の瞬間、意識が途切れる。レーヴェは、『悪しきモノ』に乗っ取られた自分自身を取り戻すことができただろうか? それが、ラウドの最後の心配だった。

 吹き込まれる温かい息に、薄く目を開ける。飛び込んできたレーヴェの顔に、ラウドは思わず重い手足をばたつかせた。
「気が付いたか?」
 微かに困惑が漂う声が、響く。レーヴェの背中には既に靄は無かった。良かった。動かない身体で、ほっと息を吐く。『古き国』が『滅びた』とされる今、この大陸を治めることができるのはレーヴェしかいない。そのレーヴェが『悪しきモノ』に支配されてしまっては、この大陸はどうなってしまうのだろう。悪い予想が頭をよぎり、ラウドは思わず震えた。しかし、全ては終わったことだ。
 ふと、前にレイが呟いた言葉を思い出す。……そうか、そういうことか。
「俺を殺して、ここに埋めろ」
 傍らに跪くレーヴェに、なるべく素っ気なく言い放つ。
「微力だが、俺の血と力で、この国を守ってやる」
 それが、ラウドの存在意義であり、今ラウドにできる全て。だが。ラウドの言葉に、レーヴェはただ眉間に皺を寄せると、ラウドを抱き上げて自分の馬に乗せた。
 何故、そんな悲しい顔をする? 再び馬上の人となったレーヴェに感じるのは、疑問だけ。ラウドを殺すことなど、レーヴェには簡単なはずなのに。何故、それをしない? そう思いながら、ラウドの意識は再び、闇の中へと落ちていった。

 次の日の、朝早く。
 ラウドは、王宮を抜け出す為に、回廊の北西にある礼拝堂へと向かった。礼拝堂の裏は、王族や戦いで亡くなった兵士を葬る墓地になっている。その更に向こう側は王宮を守る為の盾壁になっているのだが、その場所に、いざという時の為に設えられた小さな裏門があり、そこを越えることができれば王宮の周りに巡らされた空濠も都を囲む堅固な城壁も突破できることは、既に調査済み。城壁の向こうが急峻な崖と水を湛えた深い堀であることに多少の問題はあるが、それはまあ、何とかなるだろう。ラウドは落ち着いて、陰気な朝の墓地を突っ切った。
 だが。鋭い感覚に、立ち止まって溜息をつく。振り向かなくとも、ラウドの後ろにレーヴェが立っているのが、何となく分かった。鋭い空気は、おそらく、レーヴェが構えている弩か何かが自分に向けられているからだろう。
「ここに残れ、ラウド」
 レーヴェの声が、背中に響く。
「私は、お前を殺したくない」
 ルージャによって改変される前の過去では、躊躇いなくラウドの喉に剣を突き立てたくせに。苛立ちが、湧き上がる。全く、何故こいつは、自分を欲し、拘束しようとするのだろうか? ラウドは大仰に舌打ちをした。この場所では、自分は何の役にも立たない。誰が何と言おうと、ラウドは、『古き国』の騎士なのだ。それ以外の、何者でも無い。
 だから。振り向きざま、レーヴェに肉薄する。一蹴りでレーヴェの持つ弩を叩き落とすと、ラウドはすぐに踵を返して裏門へと飛び込んだ。
 背中から胸を貫く痛みには構わず、習得している魔法の一つで裏門の鍵を開け、空濠に掛かっている橋を渡る。城壁の方の小さな裏門も魔法でこじ開けるなり、ラウドは目の前の淀んだ水へと飛び込んだ。
 冷たく重い水が、ラウドの身体を深みへと引き込む。意外な水の抵抗にあえぎつつ腕を伸ばすと、何か温かいものがラウドの腕を強く掴むのに気付いた。
「ラウド!」
 この声、は。
「ルージャ?」
 自分の口から小さな声しか出ないことに、驚く。ルージャとレイに両腕を引っ張られて、ラウドはどうにか水の中から脱した。
「何やってんだよ」
 草地に横たわり喘ぐラウドの視界に、肩を竦めたルージャが映る。
「いつものことですが、今回は更に酷いですね」
 ラウドの傍らにレイが跪き、その白い手をラウドの胸に当てたのが見えた。どうやら、レーヴェはラウドを止める為に、弩以外の手段を使ったようだ。道理で、水堀から自力脱出ができなかったはずだ。レーヴェの執念に、ラウドは呆れざるを得なかった。
「全く、俺達がいなかったらどうしてたんだよ?」
 ラウドに治癒の魔法を施すレイの横で、ルージャがいつものように毒づく。それは、心配要らない。『記録石』は全て部屋に置いてきたのだから、危険が迫ればレイやルージャがこの場所にいる時間に『飛ぶ』ことができるだろうと予想していた。しかしルージャにはそのことを告げず、ラウドはただ静かに、微笑んだ。

(終)
2014.2.17.  風城国子智(作者の現状と若干の注意)

WindingWind 風城国子智