私の選択

「見てなさい」
 女王の言葉が、紅い空に響く。
「いつか必ず、『古き国』の女王が『新しき国』を滅ぼすでしょうよ!」
 怨嗟に満ちた高い声に、ルネは恐怖以外感じなかった。
 そっと、傍らの偉丈夫を見る。ルネが仕える獅子辺境伯、いや、女王が支配する『古き国』からの独立を宣言し、今は獅子王を名乗っているリュカは、獅子に相応しい威厳を崩していなかった。黄昏の中で撤退する女王の軍勢に、濃色の瞳を鋭く向けている。これなら、大丈夫だ。ルネも王に習い、ピンと姿勢を正した。負けられない。……ロルの為にも。獅子王の大きな背に、ロルの華奢な背が見えたような気がして、ルネは思わず、一瞬だけ目を閉じた。
「負け犬の遠吠えだな」
 リュカの、固く引き結ばれた唇から、声が漏れる。
「しかし油断はできぬ」
 そう。これから、だ。獅子王リュカの言葉に、ルネは大きく頷いた。負けるわけにはいかない。常に前のめりだったロルの後ろ姿を再び思い出し、ルネはふと、笑った。

 木々の影が途切れた場所に見知った影を見つけ、思わず立ち止まる。
「あら、ロル。敷物を押さえてくれていたのね」
 ルネの後ろに居たリザの声に上半身を起こしたその影に、ルネは黙って会釈をした。
「惰眠を貪っているだけの騎士じゃ、格好がつかないものね」
 姉らしく遠慮の無いリザの言葉に笑うロルに対し、気後れと気恥ずかしさを感じるのは何故だろう? ルネは黙りこくったまま、ロルが先程まで寝転がっていた、林と小川の間に小さく存在する開けた川原に敷かれた敷物の上に、抱えていた薬草の束を静かに置いた。
 麗らかな春の日々。人々はしばしば、仲の良い者同士で集まり、林や川原で薬草や香草、そして咲き乱れる花を摘む。役に立つ草木を集めると同時に、気の合う人々と楽しい時間を過ごすことになるこの春の時間が、ルネは好きだった。
 薬草の束の隣に、そっと腰を下ろす。ロルが近くに居ることで心が乱れるが、それでもルネは、母に教わった通り、自分とリザが摘んで来た薬草を分類し直した。
 北西部分以外は海に囲まれた場所にある『古き国』は、南東部にある女王が住まう都と、その周りに位置する幾つかの辺境伯領から成っている。ルネの母は、『古き国』の南西部を守る『隼』の辺境伯領の隅に暮らし、薬草や香草を調合したり、魔法の知識で以て人々に力を貸す『仙女』として、人々の信頼を得ていた。だからルネ自身も、薬草や香草の知識についてはある程度の自信がある。その知識が、ルネの母の庵に出入りし、何故か仲の良かった『隼』辺境伯の妻であるリザの母にも、そして母と共に遊びに来ていたリザにも信頼されているのだろう、ルネの母が森に入ったまま行方不明になってしまった時、リザの母はルネを辺境伯の館に引き取ってくれ、そして『隼』辺境伯領の北側にある『獅子』辺境伯領に嫁ぐリザの侍女としてルネを、ルネが唯一心を開いている友人リザと共に送り出してくれた。リザとリザの母には感謝してもしきれない。その信頼に応えなければ。ルネは無心に、薬草をきちんと敷物の上に並べ直した。
「これ、全部違う草なのか?」
 不意にロルの声が降って来て、集中力が切れる。少しだけ顔を上げると、『古き国』の女王に仕える騎士が身につける緋色のチュニックの端が、ルネの瞳に刺すように映った。
「ええ」
 下を向いたまま、ルネは小さく答えた。リザの一番下の弟であるロルも、小さい頃からルネの母の庵に出入りしていたので、ルネは小さい頃からロルを知っている。その、同い年の遊び相手であったはずのロルに近づけなくなったのは、何時の頃だろうか? ロルとリザが『辺境伯』という高い身分の人間だと意識した頃からだろうか? それとも、何時まで経っても華奢なままのロルの身体つきが、それでも自分と違ってがっしりとしてきたと気付いた頃からだろうか? とにかく、顔が火照るのを見られないようにしなければ。ルネはロルの居る空間から少しだけ身を離し、林の傍を流れる小さな流れを見た。
「そうよ」
 その二人の間に、にっこりと微笑んだリザが割って入る。屈託の無いリザの行動に、ルネはほっと息を吐いた。
「髪、やっぱり解けてるわね」
 ルネの濃色の髪に手を触れながら、リザが仕方が無いと言うように笑う。ルネの髪は真っ直ぐで固く、髪を結ってもすぐに解けてしまうのだ。リザの柔らかい髪が羨ましい。紅い色に映える白い花を根元に留めたリザのふっくらとした髷に、ルネはふっと息を吐いた。
「短剣を貸して、ロル」
 ロルから手渡された、鞘を付けたままの短剣で、リザがルネの髪を丁寧に分け、器用に編み込みを作っていく。リザが髪を引っ張る度に顔が引き攣る。だが、髪をいじられるのは嫌いではない。温かな日差しと相まって、ルネは気持ち良く目を閉じた。
 と。
「花と香草、集めてきたぞ」
 低い声が、辺りを威圧するように響く。
「リュカも居たんだ」
 珍しい。その気持ちをありありと出した声と共に、ロルはルネとリザの傍を離れ、リュカという名の偉丈夫に軽く頭を下げた。
 その偉丈夫の影に、ロルに対してとは異なる面持ちで、再び俯く。若くして『獅子』辺境伯となったリュカの周りには常に重々しい空気が漂っている気がする。そこに気後れしてしまうのだ。そのルネの気持ちなど意に介さないように、リュカは黄金の髪を揺らしながら左手で握っていた薬草の小さな束をルネの横に置くと、右手に持っていた花束をリザに渡した。
「ありがとう、リュカ」
 貰った花束を胸に当て、明るい色の花より明るくリザが微笑む。本当に、リザとリュカは仲の良い夫妻だ。二人の様子に心が温かくなるのを感じ、ルネはふっと息を吐いた。仲が良いだけではない。辺境伯であるリュカははきはきと物を言うリザを信頼しており、リザの方も賢明な君主であるリュカを尊敬している。友人であるリザの夫がリュカであることを、ルネは誇りに思っていた。
「とりあえず、これくらいあれば良いか?」
 リュカがリザに尋ねる声が聞こえてくる。ルネの周りには、リュカが連れて来た三人の近衛達が運んできた草花が山のようになっていた。
「多過ぎるくらいですね」
「リュカはいつも極端だから」
 敷物の上を見回して笑うリザの声に、邪魔にならないようにと敷物から立ち上がったロルの声が重なる。辺境伯を継ぐ前、リュカもロルと同じように『古き国』の女王の騎士として厳しい修行を積んでいたと聞いている。ロルとはその頃からの友人で、互いに信頼していることも。今も、ロルのある意味不躾な言葉に、謹厳な伯であるはずのリュカは笑みを浮かべている。その様子を、ルネは楽しさと、そして少しの淋しさと共に見詰めていた。
「ところで」
 ひとしきり笑った後で、リュカの口調が変わる。
「ラヴィニスとセシリアは何処だ?」
 二人の女性の名前に、ルネの心は急速に静まった。
 ラヴィニスとセシリアは、『獅子』辺境伯の館に遊びに来ている、リュカの双子の従妹。ラヴィニスはこの夏に『古き国』の女王となることが決まっている。そして、セシリアは。
「林に入るのは嫌だからって、上流にある花畑に行ったはずよ」
 リザの言葉に、ロルが剣帯に剣を差し直すのが見える。
「探してくる」
 当たり前のようにロルの口から出た言葉に、ルネはそっとロルを見た。ロルは、セシリアの婚約者だ。『隼』辺境伯の五男であるロルが騎士として必要な封土を得る為には、男子の跡継ぎが居ない家の娘と結婚するより他に無い。その目的の為にリュカが仲立ちした婚約なのだと、ルネはリザから聞いていた。しかしこの婚約は政略ばかりに彩られているわけではない。銀の髪を揺らすセシリアは豊かな印象の美人だ。性格も明るい。ロルがセシリアと仲良く歩いているところを、ルネは何度も目にしていた。ロルは、セシリアを好いている。そして、セシリアも。ロルがセシリアと結婚することは、ロルの為に良いことなのだ。セシリアとロルの幸せな様子を見る度に、ルネはそう、自分を納得させていた。それでも。
「あ、私も行きます」
 無意識に、そう、言ってしまう。
「二人の方が良いわね」
 リザの言葉を背に、ルネは走るロルの後を小走りで追いかけた。結われたばかりの髪が解け、顔に掛かる。それでも、ルネはロルと同じ速度で走った。
「あれか?」
 ロルの足が、不意に止まる。そのロルの華奢な背にぶつかりそうになり、何とか寸前で止まることができたルネは、ロルの背中越しにロルの指差す方向を見、こくんと頷いた。
 柔らかい春色のドレスを身に着けたラヴィニスとセシリアは、対岸に広がる花畑にいた。二人で仲良く花の冠を編んでいる。ラヴィニスの白金色の髪とセシリアの銀色の髪に午後の柔らかな日差しが当たり、キラキラと幸せそうに輝いていた。
「セシリア」
 婚約者の名を、ロルが叫ぶ。ロルの声が聞こえたのか、セシリアとラヴィニスは同時に良く似た顔をルネ達の方に向け、二人同時に手を振った。
「リュカが、もうそろそろ帰るって」
「分かったわ」
 ロルの言葉に、ラヴィニスが優雅に立ち上がり、川に架かる小さな橋の方へと身体を向ける。だがセシリアは、近くに咲く大輪の花に気付き、その花を摘もうと手を伸ばした。
 次の瞬間。それまで無かったはずの、ふんわりとした闇色の靄が、セシリアを包む。ルネが目を瞬かせるより先に、セシリアの姿は、その靄と共に消えた。
「え」
 突然のできごとに、身体が固まる。
「セシリア?」
 ロルが川に飛び込んだ水飛沫の音で、やっと呪縛が解けた。
「セシリア!」
 対岸に渡ったロルが、セシリアが居た辺りに膝をつく。狂ったようにセシリアの名を呼ぶロルの姿を、ルネは呆然と見詰める他、無かった。

「……独りで森に入るとは」
 聞き知った、心配と怒りに彩られた声が、背後に響く。
「『悪しきモノ』に襲われたら、どうするんだ」
 心配して、くれている。振り向きながら、心が弾む。だが、振り向いた先に居たロルの姿に、ルネの心はあっという間に奈落へと沈んだ。
「お帰りになっていらっしゃったのですか?」
 憂いを押し隠して、それだけ尋ねる。
「いや、今朝領内に入ったばかりだ。まだリュカ……辺境伯にも挨拶に行ってない」
 ルネの問いに、ロルは細い声でそれだけ答えた。
 セシリアが黒い靄に飲み込まれてから三年の月日が経っていた。あの事件が起きてすぐ、セシリアの姉ラヴィニスはこの国の女王の地位に就き、そして配下の騎士達に黒い靄=『悪しきモノ』の徹底的な殲滅を命じた。改めて国中を調べたところ、『悪しきモノ』はこの国のあちこちで罪無き人々を飲み込み、突然の悲劇を国中にもたらしているという。女王として、放ってはおけない。ラヴィニスの命令には妹を失ったことに対する悲しみ以上のものが確かに含まれている。女王の住まう都から遠く離れた獅子の辺境伯領に住むルネにも、その感情は理解できた。だが。目の前に立つロルの、細い影に、心が痛む。女王ラヴィニスの命令を、騎士達の先頭に立って忠実に遂行しているのがロルだと、リュカが苦々しく話すのを聞いたことがある。元々小柄だったロルだが、その影は前より小さく、そして顔色はすっかり青白くなっている。おそらく立っているのもやっとだ。ルネがそう判断した矢先。
「ロル様!」
 思わず叫んで、ロルの許へ駆け寄る。ルネの細い腕に凭れ掛かったロルの身体は、思った以上に軽かった。『悪しきモノ』を殲滅するのに必要なものは、女王から叙任を受けた騎士達の血と力。すなわちロルは、自分の身を犠牲にして『悪しきモノ』を封じているのだ。倒れるのも、無理は無い。
「ロル様?」
 そっと、ロルの身体を揺する。気を失っているだけのようだが、呼びかけても返答は無い。これは、……まずい。ルネはぎゅっと唇を噛み締めると、薬草摘み用に持って来た籠を地面に落とし、その代わりに、ロルの身体を自分の背中へ押し上げた。

「全く、ラヴィニスも酷いことをする」
 代々の『獅子』辺境伯が住まう屋敷の一室で、主人であるリュカが大きく息を吐く。
「ロルをこんなになるまで扱き使って」
 リュカの視線の先には、ベッドに寝かされたロルが眠っている。ロルの、規則正しい息づかいに、ここまで頑張ってロルを運んだルネはほっと胸を撫で下ろした。
「ラヴィニスを、責めないで」
 不意に聞こえた、小さな声に、はっとしてロルを見る。
 意識を取り戻したロルは、濃茶の瞳でリュカを見詰め、そして再び目を閉じた。
「できれば、そうしたいがな」
 苦々しいリュカの声は、ルネの耳だけに聞こえた。
 ロルの身体を心配する、リュカの気持ちは、分かるつもりだ。愛するセシリアを失ったロルの気持ちも。青白いロルの顔をじっと見詰めているうちに、ルネの心に生まれて来たのは、自分に対する怒り。ロルの、そしてラヴィニスの悲しみを知っているにも関わらず、自分は何をした? 何もしていないではないか。せめて、……ロルの役に、立ちたい。
 だから。

 夕方、ルネは鋭く研いだ鋏を持って井戸端に立った。
 ゆっくりと、濃色の髪に鋏を当てる。何かに抵抗するかのように、固い髪は鋏を拒絶する。小さな束にしてようやく、髪は鋏を受け入れ、ルネの足下は濃色の影に埋もれた。
 どのくらい、鋏を髪に当てていたのだろうか?
「ルネ! ダメっ!」
 不意に、ルネの手から鋏が奪われる。何をするの。そう、咎めるより先に、ルネの身体は温かいものに包まれた。
「貴方まで、狂乱に巻き込まれちゃダメ」
 ルネを背中から抱き締める、リザの声が、ルネを正気にする。
「私には、ラヴィニスの気持ちも、ロルの気持ちも、分からない。けど、ロルの様子も、ラヴィニスの命令も、尋常じゃないことは、分かる」
 どんな時でも、例え愛する者が殺されても、冷静でいること。諭すように言った、母の言葉が、ルネの心に蘇る。そうだ。母の言う通りだ。冷静にならなければ、判断が鈍る。感情に囚われずに物事を判断する母を「冷たい」と言って嫌う人々も居たが、ルネ自身は、常に揺るぎない母の行動を尊敬していた。そう、母のように、冷静に、そして揺るぎない判断で以て、ロルを助けなければ。そうしなければ、却ってロルの足手纏いになる恐れがある。そのことに気付かせてくれたリザに、ルネは心から感謝した。
「……ありがとう、リザ」
 静かに、それだけ口にする。
「久しぶりに『様』無しで呼んでくれたわね」
 背後から聞こえるリザのほっとした笑い声に、ルネは思わず微笑んだ。
「でも、その髪は、勿体無いことをしたわね。とりあえず切り揃えないと、そのままでは」
 リザがそっと、ルネの髪を撫でる。真っ直ぐな髪の切り口がちくちくと首筋に当たっていたが、不快ではない。うっとうしい太い髪を短くして却ってすっきりしたくらいだ。だからルネは、振り返って再びにっこりと笑った。

 独りで、森の中に入る。
 嫁ぐリザに付き添い、この獅子辺境伯領に暮らすようになってからずっと、ルネは母から教わった薬草術を生かす為に領内の森を巡っている。だから領内のどの森もルネは知悉している。不安は無い、はずだ。だが。……今日は何故か、心が騒ぐ。薬草の採取以外の理由で森に入っているからだろうか。それとも、これから行うことに、怖れを抱いているのだろうか? 気持ちを落ち着かせるように、ルネは木々の間で立ち止まり、大きく息を吐いた。
 その時。木々が途切れた場所に、黒みを帯びた灰色の靄がふわりと現れる。『悪しきモノ』だ。ルネがそう認識するより早く、靄はルネの方にのそりと近づき、ルネの様子を窺うように止まった。
 大丈夫だ。再び深呼吸をする。昨日、代々の獅子辺境伯が居城と定めている屋敷内の図書室に忍び込み、片っ端から文献を調べた。『悪しきモノ』について母が言っていた数少ない言葉も思い出した。母の言葉と、昔の賢者が書き記した言葉に従えば、大丈夫だ。それを、確かめに来たのだから。
 不意に、靄の一部がルネの腕に絡まる。叫びそうになったルネだが、靄はルネの感情には頓着せず、すぐにルネから離れて木々の影に消えた。
 止めていた息を吐く。現在『悪しきモノ』と呼ばれているあの靄は、基本的に人を襲うことは無い。人と『悪しきモノ』、互いの領域さえ守っていれば、問題は無いのだ。母はそう言っていたし、書物にもそう書かれていた。『悪しきモノ』の正体は、かつてこの大陸を支配していた『神』のようなものの、滅ぼされた成れの果て。滅ぼした張本人である『古き国』の女王と彼女の騎士達、そして辺境伯の血を引く者については、感情に刻み込まれた積年の恨みから襲うこともあるが、人一人殺せるほどの力を持っているわけではないので、少しの血、あるいは女王の騎士達が必ず所持している、『記録石』と呼ばれる小さなお守りと引き替えに解放してくれる。現に、ルネに近づいた先ほどの靄も、ルネがリュカの書斎から失敬して持っていた黒銀色の楕円形のお守りを取って行っただけだ。ルネには一筋の傷も付けていない。獅子辺境伯であるリュカの従妹であり、かつ女王ラヴィニスの双子の妹であるセシリアは、『悪しきモノ』にとっては敵の血を濃く受け継いだ人間の一人である。だが、それでも、セシリアを一瞬で飲み込むほどの『力』が、あの靄にはあっただろうか? 無かったような、気がする。ルネはしばらく考え込んだ。
「ルネっ!」
 強い声に、我に返る。
「何をしているっ!」
 振り向くより先に、ルネの身体は太い腕に抱き取られていた。
「大丈夫か? 怪我は無いか?」
 ルネの小柄な身体を隅々まで調べるリュカが見せる、常の謹厳さとは異なった表情に、くすぐったくなる。おそらく狩りに来ていたのだろう、大柄な背中で揺れる矢筒が、ルネの心を和ませた。心配しなくても大丈夫。ルネは少し微笑んでから、急に真顔になった。獅子辺境伯であるリュカにまず、全てを話した方が良いだろう。地位を持っているリュカなら、ルネの発見からロルを助ける術を見出せるはずだ。
「……獣みたいなものだな」
 これまでのことを話すルネの長い話を中断せずに聞いたリュカが、溜息を漏らす。
「しかし一例だけでは、判断できない」
 あくまで冷静なリュカの言葉に、ルネはこくんと頷いた。確かに、先ほどの靄が『特殊』でルネに致命傷を負わせなかったという推測は成り立つ。辺境伯の血を引いていないルネ自身が『特殊例』であるかもしれないのだ。
「近衛騎士達を何人か大陸に派遣して、調べてみよう」
 そう言ってから、リュカは急にルネの瞳をじっと見詰めた。
「ロルのことが大事なのは、俺も同じだから分かる。だが。……無茶は、いけない」
 強い光を放つリュカの蒼い瞳に、たじろぐ。だが、リュカが心からルネのことを心配してくれていることだけは、理解できた。
「君に何かあったら、リザもロルも悲しむ」
 リザはともかく、ロルは悲しむだろうか? 切なさが、ルネの胸を噛む。想いを振り切るように、ルネは強く首を横に振った。

「その結果は、本当なのか?」
 女王の周囲から、声が上がる。その声にリュカが強く頷いたのが、リュカの大きな背に隠れるように立っているルネからも見えた。
 大陸南西部に位置する、『古き国』の首都。その都の中にある女王の宮殿の謁見の間に、ルネはリュカの従者扱いで男装して立っていた。周りにいるのは、女王の騎士であることを示す赤い上着と黒いマントを身に着けた、威圧感のある人々。皆、女王の信任を受けて各地を支配する辺境伯や、女王の叙任を受けた騎士達だ。どの顔を見ても近寄りがたく見えるその人々の真ん中で堂々と説明を行うリュカの背中が、ことさら頼もしく思えた。
 リュカの説明にどよめいた謁見室の空気を、ルネは当然だと感じた。言い出したルネ自身、結果に驚いているのだから。
 ルネと、リュカが信頼する近衛騎士達が大陸を巡って得た結果は、驚くべきものだった。『悪しきモノ』に人々が飲み込まれ始めたのは、女王が『悪しきモノ』を殲滅するよう騎士達に命じた後だったのだから。すなわち、リュカの言う「獣と同じ」ように、攻撃され殲滅されることに怒り恐れた『悪しきモノ』が、身を守る為に人々を襲い、飲み込むようになったのではないか。それが、ルネと、部下達の報告を聞いたリュカの結論。
「本当に?」
 辺境伯の一人が、女王の傍からリュカの目と鼻の先に移動し、確かめるようにリュカを睨む。女王の婚約者である『鷹』の辺境伯だ。噂に聞く居丈高な雰囲気から、ルネはそう察した。
「……嘘だ」
 女王の傍らに控えていたロルが、震えるように小さくそう言ったのが、ルネの耳に切なく響く。ルネ達が調べてきた結果から導き出される結論は、ロルにとってはこれまでのことを否定されるに等しい。それでも、少なくともロルにだけは、理解して欲しい。ルネは心からそう願っていた。しかし周りにいる辺境伯や騎士達が色々言っているにも拘わらず、女王ラヴィニスが沈黙を守っているのが、気になる。ルネはリュカの背後から、そっと、女王の青白い顔を窺った。
「嘘だ」
 不意に、高い声が響く。女王の声に威圧されたかのように、謁見の間にいた人々は一様に押し黙った。
「例え本当だとしても、『悪しきモノ』の殲滅を止めるわけにはいかない」
「確かに」
 女王の言葉に真っ先に賛成したのは、鷹の辺境伯。
「かつては人を襲わなかったかもしれないが、今は人々を襲っているのだから」
 鷹辺境伯の言葉に、黙っていた人々が一斉に頷いたのが、ルネには不気味に映った。
「しかし」
「第一、そなたの騎士達が本当のことを言っているのか?」
 リュカも、謁見の間の異様さに気付いたらしい。それまでの堂々さを失って黙り込む。
「とにかく、騎士達をこれ以上酷使することは止めて貰いたい」
 そう言うと、リュカはくるりと女王に背を向けた。
「特に、ロルを」
 小さな言葉は、ルネの耳だけに響いた。
 リュカに従って、ルネも女王に背を向ける。
「貴方に」
 そのリュカの背中に突き刺すように、女王の震える声が響いた。
「目の前で妹を失っていない貴方なんかに、私の悲しみなんて分かるわけがない!」
 女王は、ラヴィニスは冷静さを失っている。それが、ルネの判断。振り向かずにロルの方を見ると、ロルの瞳も悲しみで燃えていた。今の女王に、いやロルにも、冷静な判断はできない。だが、いつかは、きっと、分かってくれる。ラヴィニスは高慢だが、『悪しきモノ』に関して以外は立派にこの国を治める判断をしている。ロルも、セシリアを失うまでは、明るく理知的な人間だった。だから、……きっと。祈るような気持ちのまま、ルネはリュカの後に付いて謁見の間を後にした。

 それから幾日か経った、ある日。
「ルネ」
 屋敷の庭に作った薬草園の世話をしていたルネは、何の前触れも無く目の前に現れたロルに驚きと戸惑いを隠せなかった。
「ロル様! どうしたのですか!」
 急いで、駆け寄る。ロルの顔は、都で見た時よりも血色が良いように見えた。延々と続く『悪しきモノ』との闘いで疲れ果て、今にも倒れそうには見えない。そのことが、ルネをほっとさせた。
「女王からの使いで来たんだ。リュカは、……獅子辺境伯は何処?」
 ロルが発した言葉も、ルネを喜ばせるに十分だった。女王は、ラヴィニスは、分かってくれたのだ。良かった。ルネは心からそう思った。だから。
「執務室に居ると思うわ」
 薬草園の世話を放り出し、先に立ってロルをリュカの許まで案内する。そして、好奇心が勝り、ルネは執務室を出たふりをして、執務室に飾ってある板金鎧の影に隠れた。
「人払いが必要とは」
 執務を手伝っていた近衛騎士達を部屋から出し、リュカがロルの傍らに立つ。かつては同じ女王の騎士として一緒に修行をしていた仲間らしく笑い合う二人の姿に、ルネはほっと息を吐いた。
 だが。リュカに笑いかけたロルが、急に真顔になる。次の瞬間、ロルの右手に見えた光に、ルネは隠れていた場所から走り出てロルに飛びついた。
「ロル! ルネ!」
 狼狽するリュカの声が、遠くに響く。脇腹の痛みを堪えて身体を起こすと、青白い顔で床に倒れているロルと、床に広がる赤い染みが、ルネの身体の下に見えた。『悪しきモノ』に似た、黒っぽい染みが、ロルの背中から染み出して急速に消えるのも。
「ロル様!」
 叫び声が、出て来ない。太いリュカの腕に支えられて初めて、床の染みがロルのものでは無く、ロルがリュカに振るおうとした短刀がルネ自身に刺さってできた血の染みであることが、ルネにも理解できた。
「ルネ! しっかりしろっ!」
 リュカの声が、遠い。でも。……ロルを助けることができて、良かった。そう思った、ルネの意識は、急速に闇の中へと落ちていった。

 引き攣るような脇腹の痛みを堪えつつ、両手で支えていた盆を片手に移す。空いた片手でドアを開けると、暗い空間がルネを出迎えた。
「ロル、大丈夫?」
 獅子辺境伯の館の、近衛騎士の寝起きする部屋の一つを、窓を塞ぐことによって作った臨時の牢獄。リュカを暗殺しようとしたロルはとりあえずそこに閉じ込められた。そしてルネが、一日に二度、食事を持って行くついでに様子を見守っている。今のところ、ロルは暗い部屋のベッドでぐったりとしたままだ。食事も、殆ど手を付けていない。それでもルネは、毎日食事を運んだ。しかし、今日は。
「……ルネ?」
 いつものようにベッドの傍らに盆を置いたルネの耳に、小さな声が響く。ロルが少しだけでも元気になったことに、ルネはほっと胸をなで下ろした。
「ルネ、……怪我、は」
 ベッドの上に身を起こした、消え入りそうなロルの声に、首を横に振る。もう少し深く短刀が刺さっていたら命を失っていた。治療してくれた辺境伯領の医師はそう言ったが、ロルにそれを悟られるわけにはいかない。だからルネは、意識して微笑んだ。
「大丈夫です。……ロル様こそ、大丈夫ですか?」
「ああ」
 だるそうにロルが頷いたのを見て、ルネはそっと部屋を去ろうとした。
「……本当は、分かっているんだ」
 背後でロルの声が響き、思わず振り向く。ルネを見詰めるロルの瞳が、暗闇の中で光っていた。
「『悪しきモノ』を殲滅しても、セシリアは帰ってこない」
「ロル、様……」
 そっときびすを返し、ベッドの傍らに再び立つ。ロルの方へ腕を伸ばすと、意外と強い力がルネの腕を引いた。
 頭では、分かっている。けど、感情が追い付かない。ルネの耳元で、ロルが囁く。ルネを抱き締めたまま震えるロルに、ルネはただ、黙って身を任せた。
 どれくらい、ロルに抱き締められていただろうか? 気が付くと、暗い部屋にはルネ一人しかいなかった。
「ロル、様?」
 暗闇に、小さく叫ぶ。だが、返ってきたのは、ルネ自身の声だけだった。

 目の前に止まった二頭の馬に、溜息をついて顔を上げる。
 馬の上には、女王の謁見の間で見たことのある高慢な顔が有った。
「リュカ殿は、何処だ?」
 馬上の一人、居丈高な雰囲気を纏った鷹辺境伯が、口髭を振るわせる。もう一人は、ロルの実の兄、隼の辺境伯だ。一体何の用だろうか? この忙しい時に。顔を歪めたくなるのを、ルネは冷静に堪えた。相手は辺境伯だ。扱いを間違えればリュカに、獅子辺境伯に迷惑が掛かる。
 ルネを残して行方不明になっているロルを捜すのが、今のルネの職務。女王の騎士であるロルのことも、この二人には隠しておかなければならないような気が、する。
「おそらく、ロルは女王の命令で俺を殺しに来たのだろう」
 暗鬱としたリュカの言葉を、思い出す。従属を誓った女王と、無二の親友。どちらを取るか、相反する想いに囚われたロルの煩悶を思い、ルネの胸は震えた。二つの想いに引き裂かれたからこそ、支えが欲しかったのだろう。ロルのルネに対する行動を、ルネはそう理解していた。ロルの心が癒やされるのなら、ルネは別に構わない。それよりも。親友を暗殺しようとした心の痛みに、ロルが早まったことをしていないか、それがルネの、一番の心配。
「リュカ様は、お屋敷近くの川原にいらっしゃいます」
 それでも。ルネは無理に笑顔を作ると、先に立って二人を案内した。
 ルネと同じくロルを捜しているリュカは、かつて『悪しきモノ』がセシリアを飲み込んだあの花畑付近に行くと言っていた。ロルが行くとしたら他に思い当たらないとも。その場所は屋敷に近いが、周りにある森の木々が密なので小柄なロルが隠れるには絶好の場所の一つだろう。……自ら命を絶つ場所としても。悪い予感が当たるのが怖かったから、ルネはあえてリュカに付いて行かなかった。だが、今は。行かなければならない。
 だが。ルネの予感に反して。花畑では、リュカが一人で地面を掘っていた。
「丁度良いところに」
 馬上の二人を、リュカはにこりともせずに出迎える。リュカの足下に掘られた穴の中に、土にまみれたクリーム色の布切れが見えた。確か、あの時、セシリアはその布切れと同じ色のドレスを着ていた。ルネの胸が、早鐘を打つ。まさか。
「セシリアは、『悪しきモノ』に殺されたわけでは無いようです」
 あくまで冷静に、リュカは鷹辺境伯と隼辺境伯に浅い穴の中を示す。
「では、誰に殺されたのでしょうかな」
 リュカが穴の中から拾い上げた、土にまみれた短剣の柄に掘られた鷹の紋章が、日の光にはっきりと映った。
 次の瞬間、鷹辺境伯がリュカに肉薄する。とっさのことに、ルネは鷹辺境伯のすぐ後に動いた隼辺境伯の刃を止めるのがやっとだった。
「リュカ様!」
 隼辺境伯の身体を、習い覚えた体術で花畑に沈めてから、叫ぶ。次の瞬間、目にした光景に、ルネの息は止まった。リュカと、鷹辺境伯の間に、ロルがいる。リュカに襲いかかるはずの刃が、ロルの身体を貫いていた。
「ロル!」
 狼狽したリュカの顔が、怒りに歪む。次の瞬間、鷹辺境伯の首が、花畑の端まで飛んでいた。
「ロル!」
 ぐったりとしたロルを抱えて座り込むリュカの傍らに、駆け寄る。
「ロル! しっかりしろ!」
 ロルを揺さぶって叫びつづけるリュカと、全く動かないロルの身体を、ルネはただ呆然と見詰めるほか、無かった。

「セシリアを殺したのは、鷹辺境伯だろうな」
 夕暮れを見詰めながら、吐き出すようにリュカが言う。苦しげなその言葉を、ルネは黙って聞いていた。
 女王の位を継ぐのがラヴィニスかセシリアか定まっていなかった頃、セシリアが女王位に就くと予想した鷹辺境伯はセシリアに手を出した。しかし予想に反してラヴィニスが女王になることが決まったので、女王の夫の地位を手に入れたい鷹辺境伯は邪魔なセシリアを殺したのだろう。それが、リュカの予測。でも、あの靄は? ルネの疑問に、リュカは簡潔に答えた。
「おそらく、セシリアはたまたま『消えて』しまったのだろう」
 女王の騎士、そして辺境伯の血を引く者達は、思わぬ時に、特に身に危険が迫った時に過去や未来に『飛んでしまう』という『力』を持っているという。それを抑えるのが、騎士達が必ず身に着ける『記録石』。しかし騎士叙任を受けていないが故に『記録石』を持つ義務が無かったセシリアは、靄に囲まれた時にその『力』を発揮してしまったのだろう。その結果が、この悲劇。当時セシリアを捜す為に、鷹辺境伯にも応援を頼んでいた。好機を、鷹辺境伯は利用したのだろう。誰も責めることができない状況に、悲しくなる。ルネは思わず首を横に振った。

 自分の名前を呼ぶ声に、ルネはゆっくりと微睡みから目覚めた。
「お母様! ここに居たの!」
 安楽椅子のあるポーチの向こうから、元気な赤い髪が近付いてくる。
「もうそろそろ出かけるって、王様が」
「はいはい」
 獅子王の騎士の印である白いチュニックと青いマントを身に着けた娘の言葉に、ルネはにこりと笑い、ゆっくりと立ち上がる。年は取るものではない。昔、母が始終言っていた言葉が分かる年になってしまっている。そのことが、ルネには何となく嬉しく、そしてそこはかとなく淋しかった。
 ロルが斃れ、リュカが『古き国』からの独立を宣言してから、沢山の月日が流れている。獅子王を名乗るようになったリュカは、領内に善政を敷き、自前の騎士を育て、地続きの隣国と交易をし、魔法や戦術の研究を行うことによって国を富ませ、度重なる女王の進撃を退けてきている。王や、その周りの人々の苦労が並々ならぬものであったことは、ロルが亡くなってからもそのまま男装して王の近衛従者として仕えてきたルネ自身が、具に見聞きして知っている。これまでの日々が、辛いだけでは無かったことも。
〈多分、貴方のお陰ね、ロル〉
 心の中で、そっと呟く。今日は、そのロルの命日。ロルを知る者達と共に、彼を葬ったあの川原に行く。現在の、『古き国』と『新しき国』に分かれた状態は、ロルの望むところでは無いだろう。それでも、ルネも王も進まねばならない。それだけは、確かだ。
 そして。ルネの目の前に立った、自分の娘を、静かに見詰める。赤い髪以外は、自分と瓜二つだ。そのことに、ルネは正直ほっとしていた。娘の中にロルの面影があったなら、ルネは落ち着いて娘を育てることができなかっただろう。毎日、ロルを見詰めるのは、眩し過ぎる。
「すぐ、着替えるわ」
 娘にそう言ってから、部屋に入る。娘と同じ白のチュニックに袖を通しながら、ルネは何故か幸せそうに、笑った。

(終)
2014.1.27.  風城国子智(作者の現状と若干の注意)

WindingWind 風城国子智