ある朝のこと

 見慣れた天井が、ずっと遠くに見える。
 視界に違和感を覚えつつ、それでも禎理は、雨戸の隙間から洩れる朝の光を感じて身を起こした。次の瞬間。
〈えっ……!〉
 毛布から脱出できない自分の身体に、思わず叫ぶ。しかし叫び声は、禎理の口から出ては来なかった。
〈えっ……?〉
 声の出ない口をぱくぱくさせながら、何とか、重い毛布から這い出す。朝の光に伸びる自分の影の小ささに、禎理ははっとして自分の両手を、そして無い首を動かして見える範囲の全身を調べた。間違いない。この姿は、禎理の相棒、模糊と同じ、大食いの魔物、ダルマウサギのもの。気を抜けば敷布の上を転がってしまいそうな丸い自分の身体に、禎理は大きく息を吐いた。
 どうして、このような姿になってしまっているのだろう? 少し離れたところで惰眠を貪っている模糊の、ウサギにしては丸い姿を見やってから、もう一度、模糊よりも濃い色の毛に覆われた自身の身体をしげしげと観察する。ここ最近は、魔法が関わる冒険依頼は無かったはず。だが、一応冒険者を名乗っている禎理だから、どこかで禎理を恨んでいる人はいるだろう。適当にそう結論付け、禎理は無い首で頷いた。
 とりあえず、お腹が空いた。模糊を起こして、禎理が冒険者登録をしている冒険者宿『三叉亭』に行こう。この小ささでは、階段を下りるのが大変な予感はする、けど。開きっぱなしにしていた箱ベッドの扉の向こうに見える、屋根で斜めになった自室の天井を見上げてから、禎理は今もすやすやと眠る模糊の方へとにじり寄った。『三叉亭』の主人、実は高位の魔物である六徳なら、この変身を解く術を知っているだろう。
 朝日に柔らかく揺れる模糊の黄色の毛が、短くなってしまった禎理の腕のすぐ下にある。模糊と同じ小さな手でその黄色の毛を撫でた次の瞬間、禎理の身体は強い力で横に弾き飛ばされた。
〈なっ!〉
 戸惑う間も無く、勢いのままに箱ベッドから落ちる。全身に響いた強い衝撃に、禎理の息は一瞬、止まった。
〈な、何が?〉
 床に尻餅をついたまま、顔を上げる。普段よりもずっと遠い、箱ベッドの上から変身した禎理を見下ろす模糊の、普段は全く見せない強い瞳の色に、禎理の全身は総毛立った。その模糊が、身軽に箱ベッドから床に着地する。もう一度模糊が禎理を睨む前に、禎理は転がるようにして長持とベッドの隙間に身を隠した。
 おそらく床に落ちたときに捻ったのであろう、右足が、痺れるように痛い。それでも、……ここから出るわけにはいかない。食べているとき以外は大人しい魔物であるダルマウサギも、普通のウサギと同じように、雄同士が近くにいると激しい縄張り争いを起こすらしい。六徳から聞いた、ダルマウサギに関する知識を思い出し、禎理の背は無意識に震えていた。模糊と同じ姿に変身してしまった禎理のことを、模糊は、……禎理だと、おそらく認識していない。零れ落ちた涙が、埃が溜まった床を小さく濡らした。
 時間が、ゆっくりと流れる。段々と強くなっていく足の痛みに、禎理は小さく呻いた。骨が折れているわけではない。短い腕で何とか足を確かめ、息を吐く。捻った足首が腫れているだけ。それでも、……できるだけ早く治療した方が良い。禎理を、これまで一度も見かけたことがないダルマウサギを探しているのであろう模糊の、身軽に床を飛び跳ねる足音を聞きながら、禎理はもう一度、小さく呻いた。ダルマウサギは、声を出すことができない。それでも声を潜めてしまうのは、模糊に、……見つかるわけにはいかないから。
 その時。不意に、暗がりが濃い影に覆われる。見つかった! 痛む足を引きずり、影の端に身を縮める。しかし次の瞬間、禎理の小さな身体は、その短い腕を掴んだ模糊の短い腕によって暗がりから引き出された。
 強く掴まれた腕から全身に、震えが走る。感じたことの無い胸の冷たさに、禎理は殊更ゆっくりと、腕を掴んだままの模糊を見上げた。次の瞬間。頬に感じた温かさに、再び全身に震えが走る。震える禎理をもう一度ぺろりと舐めると、模糊は身軽に、部屋の真ん中にあるテーブルの上に飛び乗った。
〈……?〉
 首を傾げてしまった禎理の前に、再び、模糊が現れる。その模糊の腕の中にあったのは、昨夕禎理自身がテーブルの上に置いた一口大のお菓子。水と卵で溶いた雑穀の粉を天板に乗せてパン焼き窯で焼いたという、料理好きが高じて人の間で暮らすようになった六徳の試作品。模糊や、今の禎理には少し持て余す大きさのそのお菓子を一口囓ってから、模糊は禎理に、半分になってしまったそのお菓子を差し出した。
〈食べろ、って、こと、かな?〉
 確かめるように、模糊の瞳を窺う。先程見た、怒りに似た光は、既に無い。大丈夫。止まった震えに胸を撫で下ろすと、禎理は受け取ったお菓子を一口で消した。
 お腹が満たされた所為か、足の痛みも和らいだように感じる。禎理に寄り添う模糊にくすぐったさを感じながら、禎理は静かに目を閉じた。

 はっと、目を開く。
 普段通りの天井が、雨戸から漏れる朝日を浴びて光っていた。
 もしかして、夢? 目を瞬かせながら、人間であるその身を起こす。右足に走った痛みが、全てが現実であったことを禎理に知らせた。
 とりあえず、三叉亭の上にある診療所に行って診てもらおう。開け放ったままの箱ベッドの扉の向こうに見える、テーブルの上のお菓子の数を数え、息を吐く。美味しかったから、旅のお供に量産しても良いかもしれないと六徳には言おう。すぐ側で惰眠を貪る模糊の、口髭についたお菓子の欠片を、禎理はそっと拭った。

(終)
2016.12.24.  風城国子智(作者の現状と若干の注意)

WindingWind 風城国子智