解かれたもの

 聞こえ始めた喧噪に、口の端を上げる。
 その喧噪が十分近付いてから、キーラは読んでいた書類を机に落として立ち上がり、執務室の窓から外を見下ろした。
 平原に暮らす人々を守る為に建てられた『始まりの都』にある、ただ一つの塔。その、円筒形をした塔の最上階にある、都を守る『夜を守る者』の隊長専用の部屋から見える平原は、地面から湧き出し作物を全て枯らせてしまった『白い土』で白茶色に染まっている。しかし『始まりの都』の、蒼みがかった黒色をした城壁の側は、何時になく明るい。平原を開拓していた、しかし『白い土』と、夜に跋扈し人々を喰らう闇色の魔物から逃れる為に新しい故郷を捨てようとしている人々を守る『翼持つ者』の一隊が帰還したようだ。疲れた影を引きずる、それでもほっとしているようにも見える『翼持つ者』達と、彼らに守られるようにして都の城門を潜る平原を開拓していた避難民達を見つめ、キーラはほっと息を吐いた。
 疲弊した避難民達を保護し、この執務室からは見ることができない、平原と他の地域とを隔てる丘の向こうへと送ることも、『夜を守る者』の職務の一つ。その仕事は、副隊長達がうまくやってくれるだろう。丘の向こうへ去っていった人々に職住の世話をしているキーラの叔母夫婦に、報告と依頼の手紙を書かなければ。執務室に設えられた大きな机に戻ろうとしたキーラはしかし、平原の方へと走り出た小さな影にはっとして窓の方へと踵を返した。あの、影は。『翼持つ者』の殿を守っていたこれも小さな影に飛びついた影に、微笑みを浮かべる。集団の殿にいたあの影は、この『始まりの都』近辺で窃盗を働いていたところを『翼持つ者』が捕らえた一団の一人。今は亡き父の友人でもあった『翼持つ者』の隊長アルトに頼まれ、一時期『夜を守る者』の見習いとしてキーラが預かっていた、リクという名の青年。そして。もう一人の、飛び出して青年リクに抱きついた影は、『翼持つ者』の正隊員となったリクが平原で助けた身寄りの無い少女。
 罪人として『始まりの都』の城壁で無惨に首を吊されるか、『翼持つ者』の一員として『白い土』が発する瘴気に冒されるか、『夜を守る者』の見習い隊員として魔物に喰われるか。それが、平原で罪を犯した者の末路。しかしリクは、『翼持つ者』の一員として、あの少女とともに生きる道を選んだ。平原の探索に向かっているアルト小父様が戻って来たら、リクをあの少女と一緒に早急に丘の向こうに送るように頼もう。夕闇の中に見える、二つの小さな影の小さなやりとりを見つめ、キーラはもう一度、微笑んだ。

 書類を整理し、少しだけ眠る。塔の最上階、都に面した半円側に設えられた、壁もベッドも黒い布で覆われた寝室からキーラが抜け出した時には、既に執務室も深い闇に覆われていた。『夜を守る者』の任務は、夜が主。きちんと整えた上着に蒼と白の剣帯を締めると、キーラは飾り紐を通した大振りの牙を首に掛け、背筋を伸ばして塔の階段を下りた。
 闇の中で思うことは、ただ一つ。
〈……今日は、魔物が出ませんように〉
 胸元で揺れる牙を、そっと見やる。だが、隊長になって以来、キーラの望みが叶えられたことは、数えるほどしかない。『始まりの都』を襲う魔物は日々その強さと数を増し、優しき獣との盟約の証である『牙』を持つ正隊員の一人が一夜だけの獣に変じる頻度も増してきている。大切な仲間が変貌した『獣』など、見たくはない。しかし『獣』の姿を見守り、朝日に溶けた獣が遺す一対の牙の片方を葬ることも、『夜を守る者』の隊長キーラの職務の一つ。その辛い役割を、キーラも、キーラ以前の隊長達も、担ってきた。だが。それでも。
 力が欲しい。それを、切実に願う。『夜を守る者』も、『始まりの都』に住む全ての人々をも守ることができる力が、必要だ。かつては、蒼みがかった黒色の城壁が、『始まりの都』を魔物から守る役割を担っていたという。しかし何時の頃からか、城壁が持っていた力は薄れ、その代わりであるかのように『夜を守る者』の犠牲は増え続けている。それは、……イヤだ。だから、力が欲しい。でも、どうすれば? 塔から周壁に出るまでの間、キーラはいつもの問答を繰り返していた。
 と。
 塔から外へと一歩踏み出したキーラの瞳が、平原に小さな影を捉える。あれは、……魔物? いや違う。平原に目を凝らしたキーラは次の瞬間、塔の中にある階段を駆け下りた。
「何をしている!」
 塔側に位置する門を守る隊員達に、怒鳴る。
「平原に人が出ているぞっ! 門の警備はっ!」
「ちゃんとやってますって、隊長」
 そう言って、副隊長の一人が門の方へと松明を向ける。確かに、大門も、その横の通用門も、しっかりと閂が掛かっている。夜の間、『夜を守る者』以外は『始まりの都』を出入りすることはできない。その規則をしっかりと守っている隊員達に、キーラは唇を引き結んだ。それでは、先程キーラが見た、リクが保護している少女に見えたあの影は、幻なのか? それとも、平原側の門よりも警備が緩い丘側の門から外へ出たのか? ともかく、魔物が跋扈する夜に都の外に出ることは、危険だ。
 隊員に言って、通用門を開けさせる。門を飛び出したキーラが目にしたのは、斜めに浮かぶ月の方へとふらふらと向かう細い影と、その影の左手に輝く黄金の光。そして。突然湧き出し、少女を飲み込んだ蒼黒い影に、キーラは剣を抜いて飛び掛かった。
 少女に絡む影を切り刻み、影の外へと少女を突き飛ばす。しかし次の瞬間、キーラの周りにいたはずの影は、きれいさっぱり消え去っていた。
〈な、何だっ、た……?〉
 戸惑いが、キーラを支配する。だが。
「明日また、迎えに来る」
 地の底から不意に響いた声に、キーラの全身は一瞬で硬直した。

 次の日の夕方。
 寝室で身なりを整えながら、キーラは物思いに耽っていた。
 昨夜、蒼黒い影がさらおうとした少女は確かに、リクの想い人だった。何故唐突に、あの影は、あの少女をさらおうとしたのだろう? それが、キーラの中にある疑問。昨日の夕方までは、少女は普通に、白い土と闇色の魔物に怯え暮らす人々の一人だった。闇とは異なる蒼黒い影の目撃も、昨日の夜までは無かった。あの影は、一体? どうして、リクの想い人をさらおうとする? 頭に疑問符を張り付けたまま、キーラは塔の階段を下りた。少女を保護している宿の夫婦にも、リク自身にも、思い当たる節は無いという。今朝キーラの執務室を訪れたリクの蒼白な顔を思い出し、キーラの疑問符はますます増えた。考えていても、仕方が無い。無理に気持ちを切り替える。少女は、リクと『翼持つ者』の一団が厳重に保護している。蒼黒い影を持つ魔物は、キーラの剣で一閃できるか。いや、……しなければ。塔の影で一人頷いてから、キーラは都を守る周壁に足を踏み入れた。
 と。
 目の端に捉えた昨日と同じ影に、唇を噛む前に階段を駆け下りる。リクも、『翼持つ者』達も、何をやっている! 罵声をこらえつつ、キーラは門を守る者達に通用門を開けるよう指示を出した。まだ日は落ちたばかりだ。少女を引き戻せば、……大丈夫。
 だが。ふらふらと歩く少女の、金の指輪がはまった左手を掴むとほぼ同時に、まだ微かに夕闇が残る空間に蒼黒い影が現れる。
「フローラ!」
 おそらく少女を助けに来たのであろう、血相を変えたリクの叫び声を耳にする前に、キーラと少女は影に飲まれた。
「やっと、見つけた……」
 影の一部が、キーラが掴んでいた少女の左手に絡みつく。暗闇の中で光った少女の指輪に、キーラは一瞬で疑問の答えを出した。リクが帰還するまで、少女は指輪を付けていなかった。と、すると、この指輪は、リクが平原のどこかで拾い、少女に贈ったもの。そしてこの指輪を目当てに、この蒼黒い魔物は、現れた。それならば。推測を裏付ける為に、魔物から少女の左手を取り戻す。少女の指から黄金の指輪を無理矢理抜き取ると、キーラは影の遙か向こうに向かってその指輪を投げた。
 一瞬で、影が晴れる。すっかり闇に染まった空間にいたのは、キーラと少女、そして。
「フローラ! 隊長!」
 二人を見て安堵に叫んだリクに、気を失ってぐったりとキーラの腕に凭れ掛かる少女を引き渡す。少女も、リクも、……無事だ。キーラは安堵の息を吐いた。だが。
「なっ!」
 一瞬で三人を取り囲んだ闇色の壁に、唇を噛み締める間もなく剣を突き刺す。自分はともかく、リクと少女は。突破口を開く為に、キーラは何度も闇色に向かって剣を突き立てた。しかし闇色の魔物はキーラの剣にびくともせず、殊更ゆっくりとその囲みを縮める。どう、すれば。……これしかない。剣から手を離し、キーラは胸元に揺れる牙を強く握った。白き獣に変じ、リクと少女だけでも、……助ける。四肢に感じた力のままに、キーラは目の前の闇色に飛び掛かった。次の瞬間。
「やっと、見つけた」
 一瞬で、闇色の壁が崩れ去る。蒼黒い、そしてどこか懐かしい影の中に、キーラはしっかりと抱き締められていた。この影は、……知っている。まだ人間がこの地にいなかった遙か昔、一緒に夜の闇を駆け抜けた、兄弟。生まれ変わっても一緒にいようと、互いに贈りあった金の指輪に誓った、仲。だが、……生まれ変わったその先で、愛しい兄弟よりも先に、出会ってしまったのだ。ライナという名の、自分の命を救ってくれた、かけがえのない大切な人に。ライナを守る為に、自分は愛しい人との約束を反故にした。そして指輪を、平原の隅に捨てた。
「謝る必要はない」
 ごめんなさい。そう言おうとした口が蒼黒い影に塞がれる。
「おまえが幸せなら、俺は、……構わない」
 そして。
「力が、必要なのか? 大切な者を、守る為の」
 キーラの心の奥底を読んだような言葉に、素直に頷く。
「分かった」
 その言葉が聞こえると同時に、身体が一瞬、熱くなる。次の瞬間。朝日が降り注ぐ白い空間に、キーラは尻餅をついていた。
「キーラ!」
「隊長!」
 聞こえてきた隊員達の叫び声に、物憂げに顔を上げる。変身、したはずなのに、……朝日を浴びて、生きている。驚きで、動けない。そのキーラを『始まりの都』へと運び込む隊員達の側にリクを見つけ、キーラはそっと微笑んだ。とにかく、守りたかった者達は、無事だ。
 そっと、冷たいものがはまった左手を見る。朝日を反射する金色の光が、身体に宿った熱を思い出させる。キーラは微笑み、そして静かに、目を閉じた。

(終)
2016.5.21.  風城国子智(作者の現状と若干の注意)

WindingWind 風城国子智