『魔導書』に転生した俺と、あいつとの日々。

番外編 隠されたノート

 そのノートは、古いCDや文庫本が雑多に詰め込まれた小さな紙製整理BOXの底に敷かれていた。
〈……何だ、これ?〉
 好奇心のまま、CDを傷付けないよう左手で支え、右手でノートを引っ張り出す。古ぼけたB5版ノートの表紙には、八桁の数字が二つ記載されている、のみ。ちょっと考えただけで、夏樹には、その数字が日付を表していることがすぐに分かった。おそらく、二つ下の従弟、透が遺した、日記。数字の上四桁から計算すると、まだ透が中学生であったときのもの。
「夏樹さん」
 透の母、直子叔母さんの声に、とっさに手の中のノートを、口を開けていた自分のディパックに放り込む。
「これ、休憩用のお菓子」
 一拍遅れて、窶れた影が、夏樹の視界に入ってきた。
「ごめんなさいね。片付け、頼んじゃって」
 透が使っていたらしい、今はがらんとした勉強机にペットボトル茶とお菓子の小袋を載せた丸盆を置いた直子叔母さんが、夏樹に小さく頭を下げる。
「あ、大丈夫です」
 直子叔母さんの口から次の言葉が出る前に、夏樹は笑って首を横に振って見せた。
「透、自分が持ってないCD、結構持ってましたし」
 透が使っていた外付けHDDも、「使わないから」という言葉と共に頂いている。瀬戸内にある夏樹の家から日本海側にあるこの場所までの旅費も、父からがっつりとせしめてある。この町に行って、透の遺品を片付ける手伝いをするよう母から言われた時は、正直面倒だという思いが勝っていたが、今は、……淋しいという思いの方が、強い。丸盆に載っているものと同じ小袋を、キャスター付きのデスクワゴンの上に置かれた位牌に供える直子叔母さんに、夏樹はもう一度、首を大きく横に振った。
〈やっぱり『狭い』な〉
 直子叔母さんが部屋を出てから、もう一度、辺りをぐるりと見回す。
 六畳ほどの部屋を、ベッドや箪笥などで二つに区切った東向きのスペースが、従弟の透が勉強と睡眠に使っていた部屋。窓側の壁際には本棚付きの勉強机が置かれ、その隣に引き出しのデスクワゴンと小さなハンガーラックが並んでいる。透の父、真一叔父さんが趣味に使っている小部屋側にはロフトベッドが置かれていて、箪笥などはベッドの下に並んでいる。この空間で、透はどうやって生活していたのだろうか? 空間を上手に使った部屋であることは分かる。だが、散らかし気味の六畳部屋を一人で使っている夏樹には狭すぎる。溜息を覚え、夏樹は、何も掛かっていないハンガーラックを小さく見つめた。
 透の服は、下着を除いて全て、古着で寄付ができる団体に送ったと、直子叔母さんは言っていた。サッカーボールと防具は、透が所属していたサッカー&フットサルチームに寄付した、とも。透が持っていたノートPCは、中身を見ずに初期化して、今は真一叔父さんが使っている。本やCDも、中身を確認せずに処分したいけれども、特にCDは、どう処分すれば良いのか全く分からない。直子叔母さんからの相談を受けた夏樹の母は気安く、卒論をなんとか書き終えて一息ついていた夏樹をこの町に派遣したが、母の判断は間違ってはいなかった、と思う。分類するために本棚から床に下ろした大小様々な本に、夏樹はそっと微笑んだ。本好きだった透にしては冊数が少ないようにみえるが、この狭い空間に本を置こうと思ったら、数を絞る必要はあっただろう。
〈CD、意外と多いな〉
 本は全て寄付用の段ボールに、CDはアーティストを確かめてから梱包材をしっかりと詰めた小さめの段ボールに。夏樹が知らない、しかし検索を掛けてサンプルを聴いてみると中々面白そうな古いCDが出てくる度に、腹がくくっと揺れる。透にメタルを教えたのは夏樹自身だが、透がここまで嵌まっていたとは。フィンランド語の入門書を見つけ、夏樹は小さく目の下を拭った。そう言えば、いつか二人で、メタルの本場に行こうという約束をしてたっけ。……約束を果たすことは、できなくなってしまった、けれども。
 直子叔母さんは、何故、透の遺品を全て処分しようとしているのだろうか? 淋しさを、別の疑問で紛らわせる。自分の息子のものを、遺しておきたくはないのだろうか? いや、遺しておくことが辛いから、処分するのだろう。自分だったら? ……多分、最低限を残して処分してしまうだろうし、して欲しいと思う。父にも母にも、自分のことで悲しんで欲しいとは、思わない。位牌の前に置かれた、硝子面が割れた眼鏡に、夏樹は大きく首を横に振った。
 ふと思い出し、床に散らばったノートを掻き集める。新しめのノートの殆どは、表紙に授業名が書かれた普通のノート。しかし夏樹の予想通り、八桁の数字しか表紙にないノートが二冊、出てくる。
〈これも、放っておくわけにはいかないな〉
 透の位牌に微笑むと、新しく見つけたノートも、夏樹は自分のディパックの中に投げ入れた。

 昼からの作業が終わったのは、日が暮れる頃。
「『CD』って書いてある小さな箱だけ、家に送ってください」
 仕事から帰ってきた真一叔父さんにそれだけを頼み、ディパックを背負って透の部屋を去る。
 父からしっかりと旅費をせしめているので、近くの温泉宿を予約した。その温泉宿にディパックを下ろすと、夏樹はごろりと、畳の上に転がった。
 古いCD、結構あったな。今日の収穫を、反芻する。あのCD、透はどうやって集めたのだろう? 中古CDを扱う店が、近くにあったのだろうか? 最近はダウンロード版でほぼ何でも手に入るし、同じメタル好きでも、夏樹と透の好みは少しだけずれていたから、聴いた楽曲について話すことを、最近は殆どしていなかった。
 心の中に空いた空虚に、別の空虚を入れる。
 透が進路について考えていた時、夏樹は自分が通っていた大学に来るよう、透に言った。透にとっては伯父伯母にあたる夏樹の両親の家に下宿すれば、山一つ超えるだけで夏樹が通う国立の総合大学に通える。透の母も通っていた大学への進学を、しかし透は首を横に振って否定した。自分の学力では、試験に受からないから。透の小さな声を思い出し、夏樹は畳の上で首を横に振った。もしも透が夏樹と一緒の大学に通っていたら、……二十になる前に不運な事故で亡くなることは、無かっただろう。
 寝転がったまま、ディパックに手を伸ばす。ディパックから無作為に一冊だけ引っ張り出したノートを、夏樹は無造作に開いた。
〈これは……?〉
 小遣い、帳? 目に入った数字の羅列に、言葉を失う。大人達に見られても、大丈夫なもの、だったんだ。脱力感を覚え、夏樹は手の中のノートを畳の上に投げるように置いた。
 その夏樹の目の端に、数字ではないものが映る。
〈まさか〉
 起き上がり、投げ捨てたはずのノートを掴んで引き寄せる。先輩に虐められたこと、勉強が難しいこと、本を読む時間が取れないこと、そして、……幼馴染みで、友人も好意を寄せている人に、思いを伝えることができないこと。ノートを捲ると、夏樹の予想通りの文章が視界に飛び込んできた。
〈やっぱりな〉
 このノート、回収しておいて良かった。天井を見上げ、息を吐く。夏休みや冬休みに夏樹の家に遊びに来た透が時折塞ぎ込むのを見かねて、夏樹は透にメタルを勧めた。塞ぎ込んでいる理由は敢えて聞かなかったが、メタルは、透の慰めになっていたに違いない。CDと、もらった外付けHDDに入っていたデータを思い返す。携帯音楽プレイヤーは、事故に遭った時に透と一緒に潰れてしまったと、直子叔母さんは言っていた。おそらく、事故に遭う直前まで、透はメタルを聴いていた。
 もう一度ディパックを引き寄せ、携帯電話を手に取る。
「何?」
 通話ボタンを押してきっかり五秒後に聞こえてきた声に、夏樹は首を横に振った。
「どうしたの? 電話なんて、珍しい」
 通話の相手は、又従姉妹の香苗。幼馴染みで、いつの頃からか互いに好意を寄せていて、夏樹が大学院の修士課程を修了して就職したら一緒になりたいと思っている、相手。
「日本海側の温泉宿に行ってるって、伯母さん、言ってたけど」
「うん、ちょっと、……声が聞きたくなって」
「えーっ」
 大丈夫? 一人旅が淋しくなった? 続く質問を、唸るようにして誤魔化す。
「あ、カニ、食べた?」
「高すぎて手が出ない」
 しかしすぐに切り替わった質問に、夏樹は小さく胸を撫で下ろした。
「あ、でも、家用に送ったから、今度食べに来いよ」
「本当っ! そうするっ!」
 はしゃぐ香苗の声が、左耳に響く。
 右耳が捉えたのは、窓を叩く雪の音。
 透が言っていた通り、煩くて淋しい音だ。取り留めの無いことを話す香苗の声に相槌を打ちながら、聞いたことのない雪の音に耳を澄ます。
 今年の夏は、透の代わりに、メタルの聖地に行こう。唐突に浮かんだ決心に、夏樹はそっと、涙を堪えた。